幼き日の記憶
母の博子が詩織に会いたいと言っているという。詩織は孝秋に頼まれた下着の着替えを紙袋に詰め、病院に向かった。母の介護は父に任せきりで、自分も顔を出さなければとは思うものの、学校と家事、そして出産の準備と、なかなかに忙しかった。
(一体何の話だろう。遺言でもあるのかしらん)
母の容体はすべて孝秋から聞いていた。後、いくばくもない命だということも。
(でも、なぜ私なんだろう。修一兄さんは全く行っていないのに)
修一のことは、堅く口止めされている。既に修一は入院してしまった。
(お兄さんのことを追求されたらどうしよう)
孝秋からは、アメリカの学会から招待されて、その準備で忙しいんだとでも言うよう入れ知恵されていた。しかし、それにしても一度も顔を出さない息子に疑問を感じないほうがおかしい。きっと母は感づいているに違いない、と詩織は思った。
(何度来ても、病院って迷路みたいで分からない)
詩織はキョロキョロと周りを見回しながら、やっと母の病室にたどり着いた。そっとノックをして、ドアを開ける。母が力ない笑顔を見せた。
「お母さん、ごめんね。何かと忙しくって」
「ううん。あなたのお陰で、家の心配をしなくて済んで助かってるわ。ありがとうね」
詩織は庭に咲いていた花を花瓶に入れ、窓際の台の上に置いた。
「まあ、きれいね。ありがとう」
「具合どう?」
「うん、何だかね。時々痛みがひどくってね」
「そう、どこが痛むの?」
「お腹と、背中がね」
「さすってあげようか」
背中を向けた母を詩織は優しくなでた。肉がげっそり落ちてしまった細い身体。その痛々しさに詩織の胸が潰れた。昔から、いつも溌剌と一分の隙も見せず、凛とした母であった。詩織は恐れさえ以って尊敬した。家から外に出ない日でも、朝から化粧をし、常に身だしなみを忘れない美しい母であった。
その母が今、顔も体も肉が削げ落ち、弱々しく横たわっている。髪の毛は多く抜け落ちて地肌が透けていた。
そのとき、急に母がうなり声を上げた。
「うー、痛い!」
「お母さん、大丈夫。お母さん!」
詩織はあわてて、ナースコールのボタンを押した。看護婦が飛んできて様子を見るや、また飛び出していった。入れ替わりに担当医が駆けつけて、静脈に注射器の針を射した。苦しみもがいていた母が、急に力尽きたように動かなくなった。
「これでしばらく大丈夫です」
そう言って、医者も看護婦も出て行った。
一人取り残されて、詩織は全身の緊張が萎えて椅子に座り込んだ。骸骨のような母の顔をじっと見つめた。こうして、苦しみながら死んでいくのだろうか。
その顔を見つめているうち、詩織は亡くなった宮崎の父母のことを思い出していた。あれはまだ、詩織が九歳の時であった。キャンプ先に連絡が入り、詩織一人帰らされた。その日は既に葬式が行われていた。白い布に包まれた、小さな箱が二つ。父と母はこの中だと聞いた。その前に座らされて、何のことだか分からなかった。父方にも母方にも親戚はいなかった。それぞれ両親はなく、父も一人息子、母も幼いころ二つ上の兄を亡くしていた。詩織はこの世にたった一人、残されたのだった。
すべて隣近所の人たちが取り仕切ってくれた。母と仲の良かった隣のおばちゃんに、詩織は聞いた。
「おばちゃん。お父さん、お母さんはどこに行ったの?」
おばちゃんは涙をいっぱいためた目で詩織をじっと見つめたまま、言葉が出ない様子であった。その顔を見て、詩織は質問をすることを一切やめた。
葬式が済んで、近所の人たちが額を集めてひそひそと話をしている。おばちゃんが詩織の手を引いて外に連れ出した。星月夜であった。零れ落ちそうなほどの、満天の星が輝いている。ぎっしりと犇く大小の星の光が詩織の頭上に降り注ぎ、それは空との距離を近く感じさせた。
「詩織ちゃん。お父さんとお母さんはね。あの星たちの仲間入りをしたの。どれだろうね。二つ仲良く並んでいるはずよ。昼間は明るくって見えないけど、ああやって、いつも詩織ちゃんを見守ってくれてる。だから詩織ちゃんはちっとも寂しく思うことないの。何かあったら、空を見上げなさい。お父さんとお母さんに会えるから」
おばちゃんの声は震えていた。詩織はおばちゃんを見上げて、おずおずと不安そうに聞いた。
「おばちゃん。私も仲間入りできない?」
おばちゃんは喉を詰まらせて、しばらく無言でいた。
「……いいえ、仲間入りできないよ。お父さんとお母さんがだめだって」
「どうして?」
「詩織ちゃんが大きくなったら分かる。詩織ちゃんが立派な大人になるのを見守ってくれてるんだからね」
「……うん。分かった」
おばちゃんと詩織はしっかり手を握り合ったまま、いつまでもきらめく星空を仰ぎ見ていた。
東京に来て、夜空を見上げてはみるものの、あのような星空は見たことがない。いつものっぺらとした灰色の空であった。
(こんな空を見たってしょうがない)
そのうち詩織は空を見上げることを諦めた。宮崎に帰って、あの星空が見たい。無性にそう思った。
父母が亡くなった、その一年前のことであっただろうか。梅雨入りが間近い初夏の週末であった。親子三人で蛍を見に行った。山間に入った、渓谷である。はしゃいで回る詩織に微笑みながら、父はテントを張り、母は朝早くから作ったお弁当を開いた。
「ねえ、お母さん。きれいな川ねえ。底が見えるよ。蛍がいっぱいいるんでしょう。蛍、捕まえて持って帰ってもいいかな」
「さあ、それはどうかな。きっとここが蛍の住まいなんだよ。家族や仲間がいっぱいいる。ここがやっぱりいいと思うよ。持って帰っちゃかわいそうでしょ」
「あっ、そうか。そうだね。じゃ、見るだけにするよ。早く暗くならないかなあ」
山の中の、夜のキャンプ地。黄緑の光を瞬かせて、無数の蛍が乱れ飛ぶ。川に沿った樹木の中は、まるで満天の星のようにきらめいていた。父の膝の上に抱かれ蛍を眺めるうち、詩織はいつしか眠りに落ちた。
満天の星も、無数の蛍も遠い昔の思い出である。そうだ、あのときのたった一匹の蛍。すっかり忘れていた、幼い日のひとこまが鮮明に蘇った。
あれは、両親が亡くなったので帰るよう連絡が入った、その前日の夜であった。夏休みの林間学校である。校舎の中にたった一つの黄緑色の光が舞い込んだ。
「あっ、蛍だ」
布団を敷き並べ、眠りにつこうとしていた子供たちは起き上がり、その光を追った。ふらりふらりと弧を描いて空間を舞う、たった一匹生き残った蛍。その一匹の蛍と自分の姿とが思い重なった。
東京の空を見上げるのをやめてから、詩織は瞼の裏の夜空の星に、よく問いかけたものだった。
(お父さん、お母さん、何で私だけ独りぼっちなの?)
病床の母が落ち窪んだ目をうっすらと開けた。
「ああ、お母さん。目が覚めた?」
「詩織、ごめんね。お願いがあるの」
「いいよ、なあに?」
「お父さんと、修一と、浩二のことお願いしたいの。あなたしかお願いする人いないし」
「うん、分かってる。大丈夫よ。心配しないで」
母はかすかに微笑んで、「ああ、浩二はもう大丈夫ね。元気になってくれて、それだけは嬉しいわ。浩二は優しいいい子だから、詩織こそ浩二を頼りにしなさい」
少し話をしても辛くなるのか、浅い息遣いをしながら、しばらく博子は口を噤んだままでいた。
「ねえ、詩織。人を恨んじゃだめよ。運命を恨んじゃだめ。人間って、与えられた人生を生きるしかないの。どんなに辛くても、逃れることはできない。それなら、その与えられた人生をどれだけ真剣に生きるかということだと思う。詩織が幸せになることを心から願っているけれど、もう私には何もしてやれないし、そばで見守ることさえできない。ほんとに、ごめんね。許してちょうだいね」
骨ばかりのゴツゴツした母の手を、詩織は握り締めた。母は安心したように目を閉じた。これが言いたくて私を呼んだのかと、母の思いが心に沁みた。苦しい病状にありながら、考えることは家族のことばかりなのだ。母は昔からずっとこうだった。
(この人は、きっと死ぬまで人のことしか考えないんだ)
詩織は優しく母の手をなでた。




