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生と死、命とは

 浩二は言葉もなく見つめていた。急に白髪が増え頬骨が目立つようになった、どす黒くも見える父親の顔であった。

 父の話がまるで遠い、自分には無関係の物語のように聞こえた。詩織の出生の秘密。あの心ひそかに愛しく思い続けてきた詩織が、本当の兄妹だったとは……。そしてその詩織は、実の兄、修一の子を宿している。何という悲劇であろう。

 大阪に逃れた浩二は心癒えることなく、ただ毎日を無意味に過ごしていた。そのあげくの、点検を怠った単純ミスによる事故であった。心の底に自暴自棄な思いがあったことも否定できない。

 しかし、意識が戻ったときに目に飛び込んだ父の悲しげな顔を見たとき、浩二は自分を取り戻した。ああ、自分は生きなきゃいけないんだ、そう思った。自分の死を悲しんでくれる人がいたことに気が付いたのだ。

 それからというもの、浩二は人が変わったように生きることに貪欲になった。医者から少しセーブするよう言われるほど、リハビリに励んだ。周囲が目を見張るほどの回復の速さであった。

 しかし、東京に帰って詩織の張り出したお腹を見たとき、浩二はまたもや心が沈み込むのを覚えた。父の話を聞くまで、浩二は心の中の葛藤に苦しんでいた。そのうち、一人アパートを借りて、この家を出ようと考えていたのである。

 父の苦悩に満ちた表情を見ながら、浩二は自分の浅はかさを思い知った。母は病床に倒れ、兄の修一は社会的にも挫折して、心の病に逃げ込むまでになってしまった。そのすべての原因を、自分のせいだと打ちひしがれている父の姿は哀れであった。

 今この葉山家の窮状を救うのは自分しかいないではないか。女々しく悩んでいる場合ではなかった。浩二は何かしらふっ切れた思いであった。

 沈鬱な重い空気の漂う夕餉である。無言で箸を動かす疲れの滲み出た青黒い顔色の父と、淡々とご飯をよそう詩織。詩織は母がしてきた通り、家族のそれぞれの好みを盛り込んだ料理を並べ、手を抜くことなく主婦を勤めている。その詩織を見ながら浩二は思った。子供を望んで作るのはいいけれど、子供の権利とは何だろう。生まれ出る者に選択の余地はないのだ。必然的に運命を背負わされるほうの権利はないのか。いまだに何も知らない詩織。周りの反対にもめげず、実の兄の子供を産もうと必死である。

 これでいいのだろうか、浩二の心に疑問が湧く。しかしもう、臨月に近い。今更どうしようもない。

(自分が大阪に逃げなかったら何とかなっていただろうか。いや、……)

 一番の被害者は詩織自身じゃないかと、憤りに似た思いが募った。浩二は、詩織の人生の重荷を共に背負う覚悟を決めた。自分のできる限りを尽くすつもりであった。


 博子は悶え苦しんでいた。その合間にうつらうつらと眠る。そして、修一と浩二の名を呼んだ。その声を聞きながら、孝秋はどうすることもできない。小康状態のときには、なぜか博子は修一のことを一切聞こうともしなかった。全く顔を出さない修一が、のっぴきならない状態だと察知しているようであった。修一は入院してますます病状は悪化し、自分を傷つけようとするらしい。壊れた精神は自分自身を破壊させようとしているのか。一時的な外出の許可など取れそうもなかった。

 さわやかな風が春の気配を感じさせる朝、珍しく随分楽な様子の博子に、孝秋も久しぶりに心休まる思いで声を掛けた。

「今日は気分がよさそうだね」

「ええ、今日はとっても楽よ。ねえ、あなた。お庭の梅はまだ咲いてない?」

「ああ、そろそろだろうがね。そうだ、咲いたら切って持ってきてやろう」

「昔よくお弁当作って、親子四人で砧公園に行ったわね。あそこの桜はとてもきれいだった」

「ああ、そうだった。修一も浩二も小さかったな」

「浩二はよちよち歩きで。修一が横を走り回る勢いでころんじゃって、泣きじゃくって。修一は浩二をなだめるのに必死で。でも、二人ともいい子だった。時計の針が戻せるものなら、あのころに帰りたいな」

「……。博子、お前には苦労ばっかり掛けて、本当に済まなかった。許してくれ」

「何を言うの。夫婦なんだもの。一緒に苦労するのは当たり前よ」

「いや、当たり前じゃないことをさせてしまった。どう償いようもない」

「……。いいの。もう何も言わないで」

 そうして、梅の開花を待つことなく、博子は静かに息を引き取った。


 詩織がそろそろ買い物に行こうかなと思ったそのとき、玄関の戸が激しい音を立てて開いた。どこをほっつき歩いていたのか、孝秋が帰ってきたのである。続いて台所でごそごそしている。いきなり居間のふすまが開いた。

「何だ、詩織。飯の用意はまだしとらんのか」

「お父さん、まだ四時ですよ。もうお腹すきました?」

「うるさい! 早く飯を作れ」

 母の博子が亡くなってからというもの、どうも孝秋の様子がおかしくなった。痴呆が始まったらしかった。何をすることもなく、日がな一日ぼんやりしている。それが最近は更にひどくなって、姿が見えないと思ったら、どこやら徘徊しているらしい。ふらりと帰ってくると、時間かまわず「飯!」と要求する。食べ始めると、「まずい。こんなもの食えるか」と、お皿ごと投げ散らすのである。たまったものではない。

 詩織は既に臨月のお腹を抱えていた。もう母がいない今、だれに相談することも頼ることもできない。保育科に学んだことが幸いであった。一人ですべて出産の準備を整えた。

 今日もまた食い散らかしたまま、孝秋の姿は消えていた。詩織は予定日には早いものの、どうも今日あたりが危ない気がしていた。いつでも入院できるように用意をし、その時を待つ。やはり、繰り返しの陣痛が来て、だんだんその合間が短くなった。孝秋はまだ帰ってこないが、仕方がない。冷蔵庫にたくさんの食べ物を詰め込み、テーブルの上に置手紙を残した。浩二の会社に電話を入れたが、出張中であった。出先への連絡を頼み、隣にも留守を頼んで、タクシーを呼び病院に行くと、すぐ入院ということになった。

 その日の夜遅く、女の子が生まれた。詩織の心のうちにも密かな不安があったが、五体満足な元気な子であった。母になった喜びが胸いっぱいに広がった。

 次の日、浩二が飛んで帰ってくれたらしく、緊張した顔付きで病室に入ってきた。

「ああ、詩織。大丈夫かい」

「ええ、大丈夫よ。ほら、赤ちゃん、見てやって」

 妙にお尻を残して上体だけを伸ばし、恐る恐る赤ちゃんを覗く浩二に、詩織は思わず吹き出した。

「ふーん。ちっちゃなもんだな。なんだか、しわくちゃだよ」

 そのちっちゃな指や足やしわくちゃな顔を、いつまでも神妙に眺め回している浩二を見て、詩織はふと思った。本当はその姿は修一のはずだった。詩織の心を寂しい風がすっと吹き過ぎた。

 詩織の身体は順調に回復した。子供も何の問題もなく成長している。

 子供は「望美」と名付けた。誕生から一週間後、詩織は望美を抱いて退院した。家の中は悲惨であった。まるで泥棒に引っ掻き回されたかのように、ひどい散らかりようである。浩二が休日ごとに片付けても間に合わないのであった。詩織は無理をしないように少しずつ片付けていった。孝秋の状態は更にひどくなっていた。詩織が何も食べさせてくれないと、近所の人に言い触らしているらしい。

 詩織が洗濯物を畳んでいると、例のごとくどこへやら徘徊していた孝秋が帰ってきた。詩織の顔を見るなり、孝秋は嗄れ声で怒鳴った。

「詩織! 飯はまだか」

「お父さん、ちょっと待ってよ。さっき食べたばかりでしょ」

「なにい、口答えするんじゃない。何という恩知らずな奴だ。お前はこの私を餓死させる気か」

 そう言うと、いきなり詩織の肩を足蹴にした。倒れた詩織の背中や腰を更に蹴りつける。鈍く腰が鳴った。

「やめて、お父さん」

 うずくまったままの詩織に憎々しげな視線を浴びせながら、孝秋は吐き捨てるように言った。

「詩織。お前はな、教えてやろうか。お前は、試験管から生まれた子供だ。お前を産んだ母親なんか、私は知らん。はっはっはっ。お前なんか、生まれてこなければよかったんだ」

 孝秋はそう言うなり、激しい足音を立てて部屋を出て行った。

 詩織はしばらく動けなかった。優しかった父に暴力を振るわれたこともショックであったが、父の言葉に混乱していた。自分が何を言われたのか、理解ができなかった。

(一体何のことなの)

 随分、時間が流れた。詩織がゆっくりと上体を起こしたとき、その両の目から涙があふれて零れ落ちた。孝秋から蹴られて痛む腰を押さえながら、詩織は奥の間に這っていった。ベビーベッドに眠るわが子のところまで行き、望美の顔を覗き込んだ。

「望美……」

 望美の寝顔は安らかであった。その愛らしい小さな手を取って、詩織は宮崎の父母を想った。詩織の思い出はいつも父の膝の中であった。父は優しかった。父の子ではなかったとはとても信じられないほど、父は自分をかわいがってくれた。

 周囲の視線を無視して、詩織は望美を産んだ。その望美の愛らしい寝顔を見つめながら、いかに亡き父や母が自分の出生を望み、そして愛し育んでくれていたかをひしひしと感じた。たとえ人の精子であったにしろ、切望された自分の出生であったのだ。

 それなのに、幼い詩織を残して二人は亡くなった。何と運命とは皮肉なものであろう。今詩織は、望んでくれた父母の思いとは全く逆に、それを恨みにさえ思う感情が湧き出ていた。そのとき、育ての母、博子の言葉が心に浮かんだ。「恨んじゃだめ。与えられた人生を生きるしかない」、そう言い残した博子。

(そうか、これが私に与えられた人生だったのか。でも、それにしてもあんまりだ。背負って生きるのは、生まれてきたこの私なんだもの。ああ、私ばかりじゃない。望美までが……)

 望美が大きく成長したときに、果たして自分の出生を喜んでくれるだろうかと、詩織は悲しい思いに沈んだ。

「望美。お前も私も生まれてこなければよかったね」

 望美のふっくらとした小さな掌の上に、詩織の涙がぽつんと落ちた。


 宮崎の山間をかなり入ったところに、身寄りのない子供たちを預かる施設がある。その子供たちから特に慕われている保母がいる。

 詩織であった。にこやかに、母のように細やかに、愛情を子供たちに注ぐ詩織がそこにいた。詩織の子、望美もその子供たちに交ざって部屋の中を危なっかしく歩き回っている。望美は皆にかわいがられ、いつもきゃっきゃっと声を出して笑っていた。

 孝秋は老人ホームに預けられた。詩織と離れると、孝秋は急におとなしくなったらしい。看護婦の手を煩わせることもなく、静かに余生を送っていると聞く。

 詩織は宮崎に帰る前、迷いに迷ったあげく、望美を抱いて修一に会いに行った。看護士に付き添われて面会室に入ってきた修一は、痩せ細って見る影もなかった。

「お兄さん、望美よ」

 修一はとろんとした目を望美に向けた。口がだらしなく開いたままだ。不思議なものでも見るように見つめていたが、しばらくして興味なさそうに目を背けた。

「お兄さん、私宮崎に帰るの。もう会えないかもしれないけど……。お兄さん、元気でね。……」

 それ以上の言葉を失って、詩織は椅子から立ち上がった。そのとき、修一が悲しそうに目を伏せた気がした。詩織はしっかりと望美を抱き締め、溢れそうになる涙をこらえて部屋から走り出た。

 修一はその後、目は離せないものの何とか落ち着いているという。退院後、父も母もいない家で修一はどうなるのであろうと心配ではある。かと言って、自分たちと一緒に暮らせるはずはないと思う。

(兄の前からは姿を消したほうがいい。兄のためにもそのほうがいい)

 心が引き裂かれる思いの決断であった。

 今は浩二だけが頼りであった。詩織が宮崎に帰る決意を話したとき、浩二は澄んだ目で力強く頷きながら言った。

「ああ、よく決心したね。それが一番いいかもしれない」

 東京を去る日、浩二が空港まで送ってくれた。望美を抱き取って、浩二が柔らかなその頬をつついた。「ひゃっひゃっ」と望美が満面を崩して笑う。浩二の顔は、逆に寂しそうに歪んだ。

 搭乗の時刻が迫ってきた。望美を詩織に返して、浩二が真剣な顔で言う。

「詩織、君は僕の大事な妹だ。何かあったら、すぐ電話くれよな。困ったことができたら、僕が何でもするからな。いいかい? 分かった?」

「うん、分かった。ありがとう。本当にありがとう」

 搭乗ゲートをしばらく行って後ろを振り返ると、身じろぎもせずに佇む浩二の姿が見えた。振り返った詩織に気付いたのか、浩二が手を挙げかすかに振った。詩織に熱いものがこみ上げた。後押ししてくれる人がいる。思えば、幼いころ葉山家に貰われてきてからずっと、浩二は自分を守ってくれた。

 痴呆の孝秋に暴力を受けたとき、詩織は自分の出生の秘密を知ってしまった。あの日、涙も涸れ果てて、望美のベビーベッドの脇で気が抜けたように座り込んでいた。会社から帰った浩二は詩織の様子に驚いて何があったのかと聞いた。うつむいてぽつりぽつりと話すのを、浩二はただ黙って聞いていた。話し終わってもまだ無言のままの浩二に、詩織は不思議に思って目を上げた。その目をしっかり受け止めるかのように見つめながら、浩二は口を開いた。

「お母さんが亡くなる少し前かな。お父さんから、全部聞いていたよ。でも、今日はつらかったね。まさかお父さんがそんな事をするとは僕も思わなかった。でも、お父さんもずっと苦しんでたんだ、きっと。お母さんや兄さんの事もあって、あんなになっちゃって……。ごめんね、詩織。お父さんのこと、許してあげられるかな?」

 詩織の目にまた涙が溢れ、浩二の胸に泣き崩れた。その肩を抱き、浩二は優しく言った。

「どんな生まれ方と聞いても、詩織が僕の妹だって事に変わりはない。いや、本当の妹だったんだから、なおさら嬉しかったよ。いいじゃないか。詩織は詩織だ。詩織は詩織らしく生きればいいんだ。僕は兄として、どこまでも応援するよ」

 背中を撫でる浩二の手は温かかった。


 昔詩織を預かってくれた施設は、詩織の申し出を快く受け入れてくれた。詩織は望美も他の子も、別け隔てなく愛した。親のない恵まれない子供たちに、ありったけの愛を注いでやりたかった。今、詩織はだれを恨んでいるわけでもない。人は皆、それぞれ与えられた人生を一所懸命生きるだけなのだ。ただそれだけのこと。

 詩織は夜になると、望美を抱き外に出て空を眺める。仰ぎ見るその瞳には、零れんばかりの星が輝いていた。



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