混乱
孝秋は、博子の顔をじっと見つめていた。憔悴しきったわが妻の顔を。
ひどい貧血で倒れた博子は、胃潰瘍ということで手術が決まった。ところが、入院して手術前のいろいろな検査の結果、癌が発見されたのだ。それもかなり進んでいた。もともと我慢強い性格で、医学者の妻でありながら昔から医薬に頼ろうとしない彼女であった。
(私がついていながら、こんなことにしてしまった)
悔やんでも悔やみ切れない。良妻賢母というべき博子に、今までどれだけ助けられたことだろう。妻あってこそ自分があった。その大切な妻が、苦悩を抱え疲れ切った身を横たえている。
落ち窪んだ目が、ふと開いた。
「あら、あなた。来てたの? えっ、今日はお休みだったっけ」
「ああ、目が覚めたかい。はは、今日は日曜日じゃないか」
「まあ、曜日も分からなくなっているわ」
「何も考えずゆっくりしていればいいさ」
博子が癌であることは告知されていない。主治医から相談を受けたが、胃潰瘍と思わせたままがいい、と孝秋は結論した。孝秋は、仕事を辞めて博子の介護に専念するつもりでいた。それが、せめてもの博子に対する償いであろう。
「あなた、浩二はだいぶいいかしら?」
「ああ、順調なようだよ」
浩二は幸いにも意識を取り戻し、奇跡的に助かった。頭の傷も大したことはなく、右大腿部の骨折も順調に治り、今ではリハビリを始めているという。
「早く良くなって帰ってきてほしいわね。元気な顔が見たいわ」
「ああ、もうすぐ帰ってくるよ」
博子は目をつぶり、何とも言えない慈愛のこもった笑顔を浮かべた。その笑顔が急に掻き曇る。
「修一と詩織はどうしてる?」
「うん、修一は学会も済んで、落ち着いたようだよ」
「学会、うまく行ったの? 大変な時期だったから、大丈夫だったのかなって気になって……」
「何とかなったようだよ。詩織はつわりも終わって、元気だし」
「ああ、元気なのはいいけどねえ、あのまま産んじゃうの」
「うーん、困ったものだが、どうしようもない。私が蒔いた種だ。私が責任取るから、おまえは何も心配するな」
「……」
博子はさも疲れたという表情で、再び目を閉じて沈黙した。博子は自分のことは何も言わない。どす黒くしわがれた唇をやっとのように動かして、子供たちのことだけを聞いた。
博子は胃全摘手術を受けた。既に、後腹膜のリンパ節や、膵臓、脾臓まで転移していて、それは目に見える限り摘出された。しかし、早い時期に再発の恐れがあるということであった。その後、退院して家でゆっくり養生していたのだが、年末からしばしば下痢が止まらなくなった。おなかや背中の痛みはひどく、体重が見る見る減少していった。正月を何とか越したものの病状は急速に進んで、一月半ば再入院となった。
その後、病状は悪化の一途をたどった。既にモルヒネが使われていた。孝秋には、あと二週間持つかどうかと伝えられた。癌性の貧血が進み、白血球も少なくなって、全身が衰弱していたのである。孝秋はほとんど付ききりであった。
「あなた。私のために、ごめんなさいね」
博子は何度も繰り返して言う。孝秋が、定年にはまだ間があったのに大学を辞めてしまったからだ。
「そんなこと、いいから」
「あなた、修一は? 元気にしているかしら」
「大学のほうが忙しくてな。見舞いに来れなくて気にしているよ」
「元気にしていればいいのよ」
最初の手術後の退院で、家で寝たり起きたりで過ごしていたとき、修一の様子を博子は感じ取っていたに違いない。自分が病床にあってなお、修一のことばかりが心配なのであろう。
「浩二は?」
「ああ、もうそろそろ会社に行けるようだ」
リハビリで歩けるようになって、浩二は東京の病院に転院した。今はもう退院して、時々博子の様子を見に来ていた。勤めも東京本社勤務ということになった。もう浩二は心配ない。ただ一つ気掛かりなことがあった。浩二にも詩織が血の繋がった妹であることを言っておくべきではないか。機会を見つけて言わなければと、決意をした。体中の血液がまるで鉛に変わったかと思うほど、どろりと重い決意であった。
病院の帰り、足が家に向かなくて、孝秋は市民図書館に寄った。ぼんやりといすに座って、棚から取り出してきた本を意味もなく繰った。
修一の学会での評価は散々であったらしい。徹夜で準備をしていたとは言え、詩織のこと、浩二の事故、そして母の入院とあまりにもいろいろあり過ぎた。纏まりのつかないまま学会の当日を迎え、あの無表情な精彩のない顔で壇上に立った。会場には冷たい空気が流れ、ひそひそ話があちこちに起こった。修一は途中何度も絶句し、薄ら笑いを浮かべて引き下がった。滝沢教授からの電話に、孝秋も言葉を失った。
「いろいろあったことは分かります。気の毒だとも思います。しかし、あの薄ら笑いはよくない。誠意が感じられない。一所懸命やったという誠意さえ伝われば、研究成果が未完成でもまだよかったのです。私の期待は大きく裏切られました。残念です」
「……。何とも申し訳ありません」
「いやいや、あなたが謝られることではない。それよりも、私は少し心配しています。修一君は、もしかしてカウンセリングを受けたほうがいいのではないかと」
滝沢教授はそう言って、自分の知り合いだという精神科医を紹介した。同じ大学内ではまずかろうという心遣いであった。そして、今日修一にしばらく休むように言ったと、滝沢教授は辛そうに伝えた。孝秋がうすうす感じていたように、やはり修一の精神はどこか破綻を来たしているのかもしれなかった。
(順風満帆だった修一の人生を、私が狂わせてしまったのだ)
「すみません。そろそろ閉館ですが」
図書館の職員に声を掛けられて、孝秋はあわてて椅子から立ち上がった。膝の上に置いていた本を取り落としそうになって、さらに狼狽する孝秋を職員は妙な目で見た。孝秋は本を棚に返すと、うつむいたまま急ぎ足で図書館を出た。
家に帰っても、今まで飛んで迎えてくれた妻はいない。居間で詩織が一人縫い物をしていた。
「浩二は?」
「部屋で休んでいらっしゃるようですよ」
「修一は?」
「部屋に閉じこもって出ていらっしゃらないんですよ」
詩織の口元に、ふっと嘲笑の色が浮かんだような気がした。手元には生まれてくる赤ちゃんのものであろう。かわいい動物柄の布地で何やら作っている。孝秋は苦々しげに顔を背けて、修一の部屋に向かった。
「修一、いるか? 開けるぞ」
ドアを開けると、薄暗い部屋の中にぽつねんと座っている修一がいた。
「どうした? 気分でも悪いのか?」
孝秋は明かりを点けて、務めて明るい声を掛けた。
「いいや、……」
やはり、表情はない。
「修一、滝沢教授から電話もらったよ。明日私も一緒に行くから、紹介してもらった先生の所に行ってみよう」
「うん……」
まるで、自分の意志というものをどこかに忘れてきたかのような修一。その虚ろな顔を見つめ、孝秋は目に涙があふれそうになった。あの精悍で輝く目をし、自信に溢れていた修一は、どこに行ったのだろう。どんよりと曇った瞳に光はない。今まであまりにも順調な人生であった。将来は輝かしく開かれていた。それが突然の大きな挫折を味わって、その神経は持ちこたえられなかったのだろうか。修一の哀れな姿は、孝秋をも押し潰した。
そのとき、だらしなくボタンを外したシャツの袖口に、孝秋の視線が釘付けになった。
「しゅ、修一、お前、その手はどうした」
修一の手首が無数の切り傷で覆われている。白いシャツの袖口が、血で赤黒く汚れていた。
「ああ、……もう死んでしまいたい……」
ぼそぼそとつぶやくように言う修一の腕を取って、孝秋は途方に暮れた。




