突発事故
電話のベルがけたたましく鳴った。まだ外は明け始めたばかりである。
「はい、葉山です。……えっ、な、何ですか?」
博子が受話器を持ったまま、身動きしない。目を大きく見開き、ひざががくがくと震え出した。
「どうした、博子」
孝秋が受話器を妻の手からもぎ取った。
「もしもし、替わりましたが、何でしょうか?」
「えっ! あ、……そうですか。どこの病院ですか? ……はい、分かりました。はい、すぐ行きますので」
早朝のただならぬ騒々しさに、しかめ面で起きてきた修一に向かって孝秋は早口に言った。
「浩二が、工場で事故に遭った。何かが爆発したらしい。救急車で運ばれたそうだが、かなりの重症だという。病院に今から行くから、母さんを頼むぞ」
修一は青白く憔悴しきった顔をわずかに動かしただけで無反応である。その虚ろさがふと気になったが、かまっている時間はない。急いで用意をせねばと気が焦る。そこへ、詩織が二階から降りてきた。
「何かあったんですか?」
孝秋は浩二のことを早口で話し、取り敢えず自分だけ病院に行き、向こうから電話を入れるからと説明した。シャツのボタンをかける手が震えるのがもどかしく、心はもう既に外に飛び出している。
「まあ、大丈夫なんでしょうか?」
詩織は大きく目を見張って驚いて見せた。その表情やしぐさは、博子そっくりである。博子の入院の準備や家のことを頼んで、孝秋は家を後にした。
大阪に向かう飛行機の中で、孝秋は深いため息をついた。あまりに突然な事故の知らせに、まだ心臓の動悸が治まらない。向こうに着いたら、何かの間違いで元気な浩二が目を丸くして孝秋を見上げるのかもしれない。そうであったらいいがと、恐らく虚しい期待をしてみる孝秋であった。
それにしても、今朝の家族のそれぞれの表情はどうであろう。博子はげっそりと痩せ、黒々としていた髪の毛が急に白っぽくなった。病人の元気のなさは仕方がないとしても、修一の虚ろさが気になって仕様がない。学会の準備で毎晩のように徹夜の状態であるらしかったが、さぞ苦しかろうと胸が痛む。しかし、精彩を欠いたその表情には、精神の安定を損ねた何か危険なものを感じた。それに比べ、詩織の表情はどうであろう。いかにも驚いた様子を見せたものの、その目にはなぜか輝くものがあった。それぞれが苦悩を抱えた中で、一人生き生きとしているではないか。そこに妙な違和感を覚えたのだ。何か不愉快なのであった。自分がすべての鍵を握っているという思いなのか。その心底に葉山家の主婦だとの自信を強めてでもいるかのようだ。
その実、博子が病気で倒れてからというもの、詩織はてきぱきと母の代わりを立派にこなしていた。それまでに詩織は育ての母から、あらゆる女の仕事を伝授してもらっていた。料理に、裁縫に、主婦としての家政学とも言えるものを、博子は詩織に教え込んでいたのである。博子と詩織には女同士の仲間意識のような絆が結ばれていた。そこには男には割り込めない、二人だけの何かがあった。博子の代わりに詩織は、今まで母から思い切り吸収してきたものを存分に発揮しているのだ。今や詩織は、育ての母の主婦の地位を乗っ取ったと言えるのかもしれない。うんざりする思いで、女は強いと孝秋はつぶやいた。いや、母は強しということか。詩織の変化は妊娠してからの変化に違いなかった。それにしても、浩二の事故の知らせに対して、今朝の詩織に痛みの表情が片鱗でも窺えただろうか。十歳のときから、あれほど仲の良かった兄妹なのに……。心が寒かった。孝秋の中に、今までの詩織に対するものとは全く違う感情が生まれていた。
工場地帯の中を、随分と走った。途中から時雨れて気温がぐんと冷え込んだ。やっとその白い建物が孝秋の視野に入った。県立尼崎病院である。更にその二キロ先に、浩二の働いていた工場があるという。時雨は止んだが、まるで日暮れてしまったかのようなどんよりとした曇り空である。待ち受けていた病院長が、孝秋の名を知っていたらしく、挨拶をして浩二のところに案内した。
集中治療室に入れられた浩二の身体から、無数の管が幾多の機器に繋がっているのが見える。動揺した表情で落ち着きなく立っていた男が孝秋に駆け寄った。その男は工場長だと名乗った。
「大変な事になってしまって。申し訳ないことをしました」
そう言って、白髪交じりの工場長は手にした帽子をもみくしゃにした。そして、しどろもどろに言う。
「しかし、こんなことを言っては何ですが。安全対策は万全のはずでして。正直言って、こんな事故を起こすなんてことは全く考えられませんでした。……」
工場長はくどくどしく、日頃から点検には細心の注意を払っていたこと。なぜトラブルが発生したか、いまだに分からない。現在調査中であるが、こんなことは初めて起きたのだと繰り返し言い続けた。
ガラスの小窓越しに、人工呼吸器の下の青白い顔が垣間見えた。
(浩二はもしかしたら、自殺を図ったのではないか)
ふとそう思った。根拠はない。全くただの事故かもしれない。ならば、浩二をそこまで不注意にさせたものは何だったのか。修一が帰ってから浩二の様子が変わった。そういえば、あのころから詩織は急に女らしくなった気がする。そして、浩二は無口になり、笑わなくなり、家から出て行った。それが、こんなことになろうとは。家を出るとき、断固反対し引き留めておけばよかった。幼いころから機械いじりが好きだった浩二とはあまり共通の話題はなく、男同士で話し合うということもなかった。
(もっと、浩二の心の中に踏み込んでやればよかった。もっと、浩二の思いを聞いてやっておけばよかった)
既に意味のない繰り言である。孝秋は、家の中が崩壊してしまったことを思い知った。その始まりは自分の、目にも見えない小さな小さな一匹の精虫であった。不妊治療に貢献するためという大義名分と、自分は優れた遺伝子の持ち主なんだという驕りで提供した。傲慢としか言いようがない。
人工授精、さらに体外受精という自然には起こりえないことを、医学は行ってきた。それは、子供のできない夫婦にとっては福音であったかもしれない。しかし、この医学の落とし子が、結局それに関わった葉山家の人々をすべて不幸に陥れたではないか。精子バンクには、今もたくさんの精子が保存され、望まれて卵子との結合を果たし、これから先も多くの人工授精児、対外受精児を誕生させていくのだろう。自然に恵まれた子宝ではなく、生殖技術という人間の手による人間の出生は、幸せを伴わないものだったのだろうか。
わが家に起きた、このような悲惨なケースは稀かもしれない。しかし、どこにもその可能性はないとは言えまい。それにしても、詩織の両親さえ交通事故にあっていなければ……。たった一人、薄幸な少女を残して……。それがなければ、詩織は葉山家に引き取られることはなかったのだ。
(いや、どうであれ、自分が詩織を引き取らなければよかったのだ。知らぬ顔を通していればよかった。いや、元より精子の提供さえしなければ……)
今更どうにもならない後悔の念が、孝秋を押し潰した。すべての原因は自分が作ったのだ。孝秋は、前も後ろも切り立った崖に一人立たされている気がした。取り返しのつかない現実を突き付けられて、どうすることもできない。
(意識がこのまま戻らなかったら……)
孝秋のあごが震え、歯が音を立てそうになる。その横で工場長がただおろおろと、孝秋の顔と治療室の中を交互に見回している。浩二の意識が戻るよう祈るよりほか、今の孝秋にできることはなかった。




