不幸の種
博子は昨夜から胃がずきずきと痛んだ。夫からすべてを聞かされて、どうしたらいいものかと、ただ思い悩むばかりなのである。あれから詩織は、一人かたくなに身を守るようなそぶりを見せて、絶対に中絶などしないと言外に示しているようだ。やっと二十歳になるかならないかの年齢で、かわいそうにと思ってしまう。考えれば胃が痛むし、考えまいとするのだが、いつの間にかやはり考え込んでいる。もしかして子供に異常が現れる恐れがあるのではないかと思うし、だからと言って、嫌がるものを無理やりに中絶させることもできまい。
(ああ、一体どうすればいいのだろうか)
重い吐息をついて、買い物に行かなくてはと立ち上がったとたん、ぐるんと世界がひっくりかえって、何もかもが真っ暗になった。
遠くから「お母さん」と呼ぶ声がした。気が付くと、詩織の心配そうな顔があった。
「ああ、お母さん。気が付いた? よかった。大丈夫?」
下に座布団が押し込まれ、上には毛布が掛けられている。
「ああ、私、どうしたんだろう」
「何かどさっと大きな音がしたから、びっくりして……。そしたら、お母さんが倒れてたのよ」
「まあ、そう……」
「お兄さんも、お父さんもまだ帰ってこないだろうから、タクシー呼んで病院に行こうか。それとも、近所のお医者さんに来てもらおうか?」
「ああ、大丈夫よ。少し横になってれば」
「そう……。お母さん、買い物に行こうとしてたんでしょ。私、何かありあわせのもので作っちゃうから、休んでてね」
「うん、ありがとう」
優しく言って台所に立つ詩織の姿を、ソファーに横になって見送りながら、本当にいい子だと思う。母親にとって、女の子は男の子と違う頼もしさがある。今までも具合が悪いときなど、助けてくれるのは詩織だった。男なんて何の役にも立たない。風邪を引いたときには、氷枕を作ってくれたり、お粥を作ってくれたり、かいがいしくしてくれる。見様見真似の母の真似事だったろう。生来の優しさからかもしれないし、貰われてきた子の必死の気遣いかもしれなかった。
(この子が来てくれて、ほんとに私たちは幸せだったじゃないか。この子を幸せにしてあげたい。望むようにしてあげたい)
目に涙をにじませながら、博子は堂々巡りの思いをまた繰り返す。修一の話によると、詩織は子供を産むと言い張っているらしい。
(しかし、障害児が生まれたりすれば大変なことだ。夫はそんなことはないだろうと言うが、万が一ということもある。それに、二人を結婚させるわけにはいかないのに、誰の子として育てればいいのだろう。何とか産ませないようにできないものか。その子がまた、不幸の種を背負ってきそうな気がする)
(あの人があんなことさえしなければ……、詩織を引き取りさえしなければ……、平穏な家族だったのに)
さっきまで詩織がいてくれてよかったと思っていたのに、もう引き取らなければよかったと思う。博子の頭は錯乱しそうであった。
(あの子だって、不幸になるために生まれてきたようなものじゃないか。何より、あの人が一番悪いんだ。私に何の相談もなく、大事な精子を勝手に……。不倫と同じことだわ)
夫に対する憎悪みたいなものが、乱れた思考回路をさらにかき回した。横になっているのに、ぐらりと目が眩む。朦朧としてくる。
(罰が当たったんだ、罰が……。神様の罰が。ああ、このまま地獄に引きずり込まれるのかもしれない)
遠くなる意識の中で、博子は思った。
病院で検査の結果、胃潰瘍と判明した。胃に穴が開いて出血し、ひどい貧血を起こしていたのだ。入院して、手術と決まった。心痛が博子の体を蝕んでしまったのか。博子の代わりに、家事一切を詩織が取り仕切った。子供をどうするか結論が付かないまま……。というよりも、博子も誰も皆、その事実に目を瞑れば逃れられるかのように、ただ無意味に避けていたに過ぎなかった。
研究室の机の上に、助手が作り上げた実験結果の書類を広げ、修一は憮然たる面持ちで一点を見つめたまま動かない。机の前に座ってどのくらい時間が経っただろう。日本循環器学会での発表の日にちが迫っている。この実験結果を元に論文を纏め上げなければならない。徹夜をしても間に合わない仕事であった。
修一は、絶望的な無力感に叩きのめされていた。あれ以来、詩織は自分に心を閉ざしてしまったように思う。周りの人間すべてが、子供を奪おうとするものと思っているかのようだ。詩織が血の繋がった妹と知っていれば、こんなことにはならなかった。とすると、一体恋愛とは何なんだと思う。運命の出会いと思い、一生添い遂げたいと思い、愛し愛され……。一時の気の迷いか、単なる熱病か。
いや、血の繋がった妹というだけではない。何と試験管ベビー、今で言う体外受精児だったとは。非配偶者間体外受精、人間の力で無理やり出生させた子供なのだ。修一は医学者ではあるけれど、医学が万全だとは思っていない。逆に学問を究明しようとすればするほど、人間の力の及ばない偉大な力を感じるのだ。それは神と呼ばれるものかもしれない。修一は信仰はしていないが、人間は人間の限界を弁えるべきだという考えがあった。遺伝子操作、クローン、先端技術など、医学が進歩すればするほど、このまま人類は進んでいっていいのかと疑問が湧く。神の領域を既に侵しているという不安な思いがあった。
学問はすべて、人間がより幸福になるべく進歩するべきなのである。しかし、人間の出生という神聖な次元に、恐れを知らない人間が手を出した。人間の四苦と言われる生・老・病・死。人間はそれと戦い、健康と不老と不死とそして次の世代を得ようとしてきた。それは自然の流れ、営みに反する行為ではなかったか。地球環境においても、自然破壊は甚だしく、このまま行けば地球は破滅するかもしれないではないか。それと同じように、生老病死という刃向かえない自然に対する愚かな抵抗が、いつか人間を破滅させないと誰が断言できよう。
それにしても、母が貧血で倒れてからの詩織は、まるで自分が一家の主婦であるかのように振舞っている。詩織は妊娠を理由に、修一にも父にも居間でたばこを吸うことを禁じた。自室で吸えと言うのである。おなかの子を誰も認めていないのに、皆産むべきではないと心の中で思っているのに……。それを承知の上で、しらっとした顔で言うのである。そのとき父は絶句し、しばらくぼうーとしていたが、ふと気が付いてあわててたばこの火を灰皿でもみ消した。次の日から、テーブルの上にもどこにも灰皿の姿はなくなった。
詩織に女のしたたかさを感じるのは自分だけであろうか。優しい顔の下に、不気味な悪魔が潜んでいたのではないか。子供は今のうちに何とかしなければならないのに、詩織の毅然とした態度は修一さえも寄せ付けなかった。それは、詩織自身の運命に対する開き直りのようでもあった。ただ本能的にわが子を守ろうとするだけのものではなさそうな気がする。わが地位を確立させるためのものではないか。
詩織は最初から積極的に自分に接触してきた。彼女が愛したものは、自分ではなく安住でき得る地位であったのかもしれない。そんな彼女にしてやられたのじゃないか。そうして、修一はそんなことを考える自分自身に憤慨するのである。
(いやいや、詩織はそんな女じゃない。落ち着けば、きっと自分の愚かさに気が付くだろう。いや、気付いてもらわねば困る)
滝沢教授の娘との縁談は、ぬらりくらりとした態度で通してきたけれど、はっきり断ったわけではない。詩織とのことは外部には秘密裏にして、あの話を進めるのが得策と思えた。そのためには絶対に子供は生まれてきてはならない。
(もし子供を産めば、僕の将来はどうなる。隠し通せるはずはないし、僕の社会的地位は崩壊するだろう。何とか始末する方法はないものか。あの子は世に出てはいけない子だ。中絶をどこまでも拒否するのなら、薬を飲ませて流産させてでも、何とかして葬らねば……)
そこまで考えてきて、修一は自分の恐ろしい考えに驚愕した。勝手に人間が人間を出生させ、今度はまた勝手に人間が人間を葬り去ろうとしている。何と罪深いことだろう。修一は自己矛盾に心が引き裂かれていくのをどうすることもできず、ただ手をこまねいて壊れていく様を見つめるだけであった。
外は既に日は落ちた。秋の終わりはつるべ落としで、冬の気配がすぐそこまで忍び寄っていた。研究所の明かりも点けず、修一の指には火の点いたたばこが挟まれたままであった。部屋の中で動くものはたばこの煙と、時折崩れ落ちるたばこの灰だけである。いすの背に深くもたれた修一は、微動だにもせず無為に時は流れていった。




