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亀裂

 詩織は幸せの絶頂にいた。父母の目を盗んで、修一とデートをした。週末、それぞれの友達と遊びに行くと見せかけて、途中で落ち合っていろいろな所に行った。信州、鎌倉、京都……。景色のよいリゾートホテルに二人は泊まった。

 ここは紅葉の美しい箱根のホテルである。カーテンから漏れる朝日に目覚めた詩織は、快いけだるさを感じた。

(ああ、昨夜はなんとすばらしかったろう)

 そっと横にいる修一の寝顔を見つめた。自分は愛されているとつくづくと実感する。

(私の今までの人生は、すべてこの人に出会うためのものだったんだ)

 詩織は、自分が母の妹の子ではないと見抜いていた。あれは、いじめられて泣いて帰ってきた詩織を慰めるための、とっさの嘘に違いなかった。父も母に話を合わせていたが、内緒で調べたところによると、自分の生家の三浦家と葉山家、そして母の実家とも何の関係もなかった。親戚筋でも何でもないのだ。それなのに、なぜ自分をわざわざ遠く宮崎まで迎えに来て引き取ったのか。そういえば、父は昔その三浦の祖父に世話になったとも聞いたことがある。父の自分に対する細かい心遣いを思うと、その話を信じる以外ないではないか。

 詩織は父と母に心から感謝した。そうして、自分がこの修一と幸せになることで恩返しができるのだと思っていた。いつか、修一と二人、父と母を前にして結婚の話をすることになるだろう。二人の、驚き喜ぶ顔が浮かぶ。そして、二人に孫を抱かせる日が来るだろう。詩織の将来の設計は、輝かしく出来上がっていた。

「あ、お兄さん、目が覚めた?」

 修一はうつ伏せになり、枕元に灰皿を引き寄せてたばこに火を点けた。いかにもうまそうにたばこをくゆらせて、目を細めて詩織を見やって言った。

「ふふん、詩織。もうそろそろ、そのお兄さんって言うの止めないかい」

「そうね。でも何と呼べばいいの? 修一さん? それとも、あなた?」

「ああ、そのあなたがいいな」

「ふふ。でもさ、家でひょこっと、あなた、なんて出たら大変よ」

「ははは、そうだね。でも、もう家族に発表する時期かもしれないな」

「ほんと? 嬉しい。でもお兄さん、教授の娘さんのことは?」

 修一はぎくっとした顔を向けた。

「えっ、詩織、知ってたのか」

「だって、お父さんもお母さんもいつもやきもきして話してるもの。修一は一体どう思っているんだって。話を早く纏めなきゃって」

「勝手なこと言ってるよ。僕には関係ない話さ」

 修一は切って捨てるような言い方をして、たばこの火を灰皿でもみ消した。

「でも、お兄さんの将来のためには、いい話なんじゃないの?」

 詩織は修一の腕の下に潜り込み、筋肉質の胸にすーと指を這わせながら、いたずらっぽく睨むような目で見上げた。

「愛のない結婚なんて、ナンセンスだよ。自分の将来は実力で勝ち取るさ」

「すてき。嬉しいわ。あ、な、た」

 甘えた声でささやくように言って、詩織は幸せいっぱいの顔を修一の厚い胸に埋めた。


 孝秋は苛立たしい思いが募っていた。岡垣教授の仲立ちで、修一と滝沢教授の娘との見合いはとうに済ませている。修一は何を考えているのか、はっきりした返事をしない。岡垣教授からは、事あるごとにせっつかれている。教授も娘も異論なく、色よい返事を待っているのだという。しかし、孝秋には煮え切らない返事しかできない。そろそろ修一を問い詰めてみるかと考えていた。

 孝秋が一人遅い夕食を終え、居間でくつろいでいると、修一と詩織が何やら緊張した気配で入ってきた。

「何だ、二人そろって」

 二人の顔を見たとき、妙に嫌な予感がした。孝秋の心の底に、自分では認めたくない何か、恐れていた何かがいきなり頭をもたげた。

「ああ、お父さんとお母さんに話があるんだ。実は、僕たち結婚したいと思って」

「ええっ、あなたたち、いつからそんなだったの? まあ、気が付かなかった。でもお父さん、この子たちならきっと幸せになるわね」

 博子は驚いた表情から喜びの表情に変わり、見開いた目はまんざらでもない様子である。

(とんでもない)

 孝秋のほうは色を失い、顔を苦渋に歪ませた。

「ばかな、結婚なんてできないぞ。おまえたちは兄妹なんだ。結婚なんて、許さん!」

 我知らず大声を上げてしまった。三人が三人、驚愕の目を向けた。

「何で? あなた、この二人は血は繋がっていないんだから結婚したっていいじゃない……」

「い、いかん。絶対にいかん。きょ、きょうだいなんだから。み、見合いの話もあるし」

 孝秋は冷静さを失い真っ青な顔で、どもりうろたえながら繰り返す。

「あなた、もしかしてこの子たちほんとの……? 詩織は、詩織は、あなた……」

 孝秋は返答の仕様がない。孝秋と詩織は父と子に間違いなく、修一と詩織は確かに兄妹なのだ。しかし、言えない。

「と、とにかく、結婚は許さん」

 声が掠れた。断固、結婚だけは阻止せねば。でなければ、大変なことになる。焦りながら、かたくなにそう思った。額には脂汗がにじむ。

「めちゃくちゃだな、お父さん。ちゃんと説明してくれよ。何でだめなんだ」

 驚きと苛立ちを抑えてはいるものの、厳しい口調で修一が言った。

「いいえ、もういい。分かったわ」

 詩織が目に涙をいっぱいため、口から嗚咽が漏れそうになるのを必死に押さえ、一言そう言って席を立った。部屋を出て行く詩織の後を修一が追った。二人残されて、気まずい空気が漂った。

「あなた、本当のことを言って。詩織はあなたの子なのね。そうなのね。三浦さんの奥さんとあなたの子なのね」

「……」

 孝秋は頭が混乱していた。そうとも言えるし、違うとも言える。生物学的には確かに詩織は自分の子に違いない。しかし、自分は詩織の母を知らない。孝秋の沈黙をどう解釈したのか、博子はプイと部屋を出て行った。

 茫然と一人居間に座ったまま、孝秋は焦って考えを纏めようとした。家族四人、それぞれがそれぞれの衝撃を受けた。そして今、家族の絆にめりめりと音を立てて亀裂が入ったように思う。それをどう修復すればよいのか……。

 博子は、詩織が三浦さんの奥さんとの関係でできた子だと勘違いした。九年前、密かな疑いもあっただろうが、博子は自分を信じ、詩織をここまで育て上げてくれた。その博子が今、自分は九年間夫に騙され続けてきたのかと、深く傷ついているのだろう。その誤解は解いてやりたかった。

(よし、博子には本当のことを話さねば)

 修一は何のことだか分かっていないだろう。とにかく結婚を頭から反対された。なぜだか分からないまま、大きな衝撃を受けただろう。しかし、結婚しようと決意した相手が血を分けた妹だということははっきり言わねばならない。かわいそうだが仕方がない。生物学的には、事実なのだから。修一は自分と同じ医学者だ。本当のことを話しても、きっと理解するだろう。理解したところで、何の解決にもならないが、修一には話すべきだと結論した。

 問題は詩織であった。彼女には絶対に本当のことは言えない。お前は試験管ベビーだなどどうして言えよう。心優しい、繊細な神経の持ち主の詩織をこれ以上傷つけることはできない。愛する人との結婚を反対されただけでもショックであっただろう。勘のよい詩織のことだ。その理由を、育ての父が実は生みの母と不倫をし、自分はそれでできた子だったからかと受け取り、今その衝撃に震えているに違いない。しかし、真実を話してその誤解を解いても、新たな衝撃のほうが大きいだろう。詩織には、真実は何があろうと聞かせられない。

(とにかく、博子に話すことにしよう)

 孝秋は重い腰を上げた。

 中は暗かった。窓の外の月明かりで、博子がベッドに座っているのが仄見えた。孝秋が部屋の明かりを点けた。真っ赤に泣き腫らした目を眩しそうに孝秋に向けたが、直ぐにそっぽを向いた。

「博子、お前は誤解してるんだ。本当のことを話すから、よく聞いてくれ」

 孝秋もベッドに腰を下ろして話し始めた。博子は黙って聞いていた。孝秋が話し終わっても黙ったまま、びくとも動かない。重い沈黙が流れた。しばらくして、博子がポツンと言った。

「みんなかわいそう、みんな」


 次の朝、孝秋が詩織の部屋をそっと覗くと詩織はまだベッドの中にいた。ぐっすり寝込んでいるようだ。昨晩はきっと眠れなかったに違いない。かわいそうにと心が痛んだ。全く迂闊であった。幼いころから兄妹となった浩二と詩織と、そして修一と詩織とは違うことを心得ておくべきであった。年頃の男と女が本当の兄妹とは知らずに出会って、同じ屋根の下に住む。何も起こることはないとだれも言えないはずである。修一は既に社会的地位もあり、詩織とは一回り以上も年が離れている。まさかと思っていた。あまりに無用心であった。孝秋は、己の迂闊さを悔やんでも悔やみきれない思いであった。詩織の痛ましさが胸に迫る。音がしないようにそっとドアを閉めて、ため息をついた。

 孝秋は沈痛な気持ちを奮い立たせるように背筋を伸ばして、修一の部屋の前に立った。軽くノックをして、そっとドアを開く。

「修一、起きてるか。話があるんだ。書斎に来てくれないか」

 修一は、腫れぼったい目で父を見やって頷いた。

「詩織の様子はどうだった」

「ああ、泣きじゃくってショック状態だったよ。明け方にやっと寝付いたんだ」

「そうか、かわいそうなことをした」

「お父さん、どういうことなのか、話を聞かせてよ」

 覚悟はしているといった様子で、修一は言った。孝秋は、すべてを話した。修一の表情が見る見る変わっていった。顔面は蒼白となり、手が細かに震え出した。孝秋は話すうち、修一の異変に気付いた。予想とは全く違う反応であった。自分と同じ医学者の修一は、冷静に受け止めてくれるはずだという自分勝手な甘えがあった。もちろんショックは受けるだろう。本当の兄妹で愛し合ったということもショックだろうが、隠し子であるよりいいだろう。父として、不倫という不名誉な誤解は解いておきたい。それは単なる父親のエゴであった。しかし、結婚できないことの何がこれほどまでに修一に衝撃を与えたのだろうか。その様子はあまりにも異常だった。

「お父さん、何で早く話してくれなかったんだ」

 修一はわなわなと震えながら、低く暗い振り絞るような声で言った。

「お父さん、遅かったよ」

 新たな不安が孝秋の胸の内に生まれ、大きく広がった。

「何だ、何が遅かったんだ」

 修一は苦しそうに顔を歪め、なかなか言葉が出ない。孝秋は焦燥感に駆られ、もどかしそうに叫んだ。

「修一、いったい何が遅かったんだ」

「……詩織のおなかには、もう子供が……」

「えっ、今何て言った?」

「子供が、くっ、くううー」

 修一は首をがっくりとうなだれ、手を畳に付けて、肩を震わせて泣いた。その姿を、孝秋はぼんやりと見つめた。頭の中で、何かががらがらと音を立てて崩れるのを聞いた気がした。

(遅かった。何ということだ。血の繋がった兄妹で、子供を作ってしまった。近親相姦。許されない子……。ああ、何と情けない。しかし、その種を蒔いたのは、だれあろう、自分なんだ)

 父の時代から医学者の家としての葉山家が、今まで築き上げてきた社会的地位や名誉。そしてそれは、修一へと受け継がれていく栄光の道のはずであった。そのためにこそ、教授の娘との縁談を進めていたのではないか。何もかもすべてが足元から崩壊し、無残に潰えそうな恐怖感に孝秋はただ慄くばかりであった。


 詩織は光のまばゆさを感じて目が覚めた。

(今、何時なんだろう)

 時計に手を伸ばしたとき、きりりと頭痛が走った。昨夜の出来事が鮮明に思い出された。このまま目が覚めなければよかったのに、と思った。

(私はお父さんの本当の子だったのか。お兄さんとは、本当の兄妹だったのか。ああ、何ということだろう)

 おなかに手が行った。この中に兄との子が宿っている。

(私は不義の子で、私と兄は近親相姦をして、法的にも人道的にも許されない子を作ってしまった)

 閉じた目尻からつうーと涙がこぼれて、枕に滲み入った。そのとき、ドアが静かに開かれた。

「ああ、詩織。目が覚めたかい?」

 修一が入ってきた。

「どう、気分は?」

「最悪だわ」

 泣き笑いの顔で、詩織は答えた。修一も静かに笑ってみせて、「僕もだよ」と言った。ベッド際に座って、修一は詩織の髪を優しくなでた。

「つらい思いをしたね」

 詩織は目を瞑り、されるがままでいた。

 ふと不安な思いになって大きく目を見開き、詩織は探るように修一を見つめた。

「お兄さん、私たちは結婚をしちゃいけないのよね。じゃあ、この子はどうなるの?」

「……」

 無言の修一の目の中に何か冷たいものがあるのに気付いて、詩織はいたたまれない気持ちで叫んだ。

「お兄さん、私嫌よ。私、この子産むわ。絶対に産むわ」

「詩織……」

 修一が詩織を落ち着かせようと手を伸ばした。

「嫌! 触らないで、あっちに行って」

 詩織はその手を払いのけて背中を向け、おなかの子を守るように丸く体を縮めた。投げかける言葉もなく立ち尽くしているのであろう修一の視線を、痛いほど背中に感じた。詩織は自分の心が固く閉じてしまったなと思った。


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