浩二の憂鬱
浩二にはこのところ憂鬱な日々が続いていた。兄の修一が帰ってきてから、詩織の様子が何か今までとは違うのを感じるのだ。詩織と自分はとても仲の良い兄妹だった。彼女は自分に全幅の信頼を寄せてくれたはずだし、自分も格別の愛情を注いだ。その詩織が何かよそよそしい。何があったわけでもない。自分の思い過ごしかもしれない。しかし、確かに今、詩織の意識は修一のほうに向いている。
浩二は自分自身、詩織に対する気持ちは兄妹のそれとしか思っていなかった。ところが修一が帰ってきてから、自分の気持ちに疑問を感じ始めていた。これはもしかして恋愛感情なのかと。愕然とする思いであった。それと同時に後悔した。兄が帰る前に、詩織の心を掴んでおくべきだった。
(ああ、自分はなんてのろまなお人よしだったんだ)
その浩二の不安は杞憂には終わらなかった。思いも寄らないところでただならぬ様子の二人を見掛けてしまったのだ。浩二は会社の新人研修で、湘南の研修所に来ていた。ここでは講義ばかりではなく、体力をつけるためにと、早朝から海岸を走らされた。二週間の研修が終わり、最後の日曜日、泳いだりボートで漕ぎ出したり自由時間を楽しんだ。
その帰りであった。バスは東名高速を走っていた。川崎のパーキングでトイレ休憩のときである。見覚えのある車だと思った。果たして兄の車に違いなかった。中に人は乗っていない。心を残しながらバスに乗り込んだ。発車するそのとき、窓の向こうに、ぴったりと寄り添い、いかにも仲良さそうに歩く兄と詩織の姿があった。兄が詩織の肩に手をかけ、車に乗り込ませた。そのときの、修一を見上げる詩織の表情に浩二は息を呑んだ。初めて見る、詩織の、たぶん特別な男だけに見せる女の表情であろう。あれは兄妹ではない、恋人同士の姿という以外言いようがない。浩二の衝撃は大きかった。
バスに揺られながら、浩二は詩織が家に来たときのことから、その後のいろいろなことを思い出していた。かわいかった詩織。すぐに二人は打ち解けて、浩二は学校から帰っては詩織といろんな遊びをしてやった。あれから八年、いや九年になるのだろうか。詩織は、時折色気を感じさせる年齢になった。お風呂上りの素顔など、はっとさせられることも多かった。しかし、二人は兄妹以上ではなかった。踏み越えてしまえばよかったんだと、歯軋りする思いである。
(自分は小さいころから、兄にはかなわなかった。学校の成績も、体格もすべて。母だって兄への愛情や期待ほど自分には掛けてくれなかった。父なんて端から相手にしてくれなかった)
その兄がアメリカに留学してほっとした。これで父や母を独り占めできる。詩織が家に来てからなんと楽しい家庭だったろう。外の冷たい風当たりのせいで、尚更家族は固く結束した。兄が帰ってこなければ、あのまま幸せな家族だったのに。
家に帰ってからも、二人は何食わぬ顔でいる。浩二はやりきれない思いである。いっそ、問い詰めてやろうかと思う。しかし、それでは詩織がかわいそうだとも思う。どこまでもお人よしであった。何も言えないまま、月日は流れた。
長期の出張から帰った浩二を、詩織が屈託のない笑顔で出迎えた。
「あら、浩二兄さん、早かったのね。お帰りなさい」
浩二の仕事は出張が多く、家にいないことが多くなった。それと反対に修一は毎日家と大学の往復で、詩織といる時間は修一のほうが長いのであった。
「ああ、なんだか久しぶりだね。元気かい」
「うん、元気よ。お兄さんも元気?」
「学校はどんな? 来年、卒業だね。どんなとこに就職するの?」
「ううん、まだ分からない。というか、就職どうしようかなと思って」
「えっ、就職しないの?」
「お花とかお茶とか習って、花嫁修業したほうがいいかなとも思ってね」
「へえ、もう結婚でも考えてるの?」
「ええっ、いやあそんなこと……」
詩織の頬が赤く染まった。確かに何かある。心の底に押し込めていた疑惑がまた顔を出した。
その夜、久しぶりに五人の家族が揃って食事をした。浩二はちらちらと修一と詩織の様子を盗み見た。詩織の眼差しが修一に向けられるとき、そこには浩二に対するときとは違う何かがあった。浩二の疑惑は確信に変わった。
明くる日、浩二は会社から大学に電話して、兄の修一を話があると呼び出した。浩二も前に行ったことのあるスナックで修一は待っていた。ヘビースモーカーの修一の前には、たばこの吸殻で一杯になった硝子の灰皿があった。
「何だよ、急に。何の話だい?」
修一は新しいたばこに火を点け、口にくわえたまま言った。
「兄さん、はっきり聞くけど、詩織とはどうなんだ?」
つい語気が強くなってしまった浩二に、修一は口から落としそうになったたばこを慌てて手に取って、驚いた目を向けた。
「どうなんだって。どうならいいんだ」
「兄さん、もしかして詩織に手を出してやしないだろうな」
修一はさすがにむっとした顔をした。そこまで率直な聞き方をされるとは思っていなかったのだろう。
「お前、嫌な言い方をするんだな。それなら言うが、僕は詩織と結婚するつもりでいるさ」
ほぼ予想していた答えであった。それでもショックは隠しきれない。
「兄さん、僕たち兄妹じゃないのかい? 何だよ、突然帰ってきて、そんな勝手な……」
浩二は怒りと情けなさで震える声で言った。
「兄妹って言ったって、血の繋がりはないんだから。僕は彼女を幸せにするさ。任せとけよ」
「兄さんなんか帰ってこなくてよかったよ。僕たちだけで十分幸せだったよ」
「あっはっは。何だ、お前。もしかして妬いてるのか? まさかお前。えっ、お前、詩織を好きなんじゃ……」
修一は笑いながら、からかうような目付きで浩二を覗き込んだ。
「いい加減にしてよ、兄さん。僕たちは詩織がまだ小さいころから仲のいい兄妹なんだ。だから、詩織が幸せになってほしい気持ちは人一倍あるし、それを見届ける権利はあるさ」
「お前、回りくどい言い方するなよ。お前の気持ちは分からなくもないが、詩織の気持ちははっきりしてるぞ。詩織と僕は愛し合ってるんだ。真剣にな。詩織を幸せにできる人間は僕しかいないさ」
修一は自信たっぷりに言って、たばこをうまそうに吸い込み、その煙を空中にゆっくりと吐き出した。完全に浩二は修一に呑まれていた。薄暗い中をゆらゆらと流れていく白い煙をぼんやりと目で追いながら、もう一言もなかった。
浩二は荷物を纏めていた。飛行機に乗る時間が近づいている。母が部屋を覗いた。
「荷物できた?」
何も知らない母は落ち着かない様子で、さっきからそわそわと居間と浩二の部屋を行ったり来たりしている。浩二は、尼崎の工場にある研究所に自らの希望で行くことになったのである。一度も手を離れたことのなかった浩二が遠い所に行ってしまう。大丈夫なのだろうか、と母は心配でたまらないのだろう。その母には浩二自身の希望でとは言っていない。
浩二は玄関に荷物を持って出た。詩織が明るい眼差しで浩二を見上げ、邪気なく言った。
「今度いつ帰ってくるの?」
「分からない。来年の正月には帰るだろうけど」
詩織をちらりと見て、すぐに目を逸らし背を向けた。辛そうな顔を見られたくない。詩織の肩越しに、修一が無言で立っているのが目の隅に見えた。一言も交わさぬままであった。父が空港まで送ってくれた。
「元気でな。何かあったら帰ってきていいぞ」
「お父さん、甘いな」
「そうかな」
父は寂しそうに笑った。




