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二人の兄

 家族に女の子が一人増えて、孝秋はなんだか華やいだ色彩を感じた。博子はまるで着せ替え人形みたいに、詩織にかわいい色とりどりの服を着せた。浩二も必要以上に世話を焼いた。二人はたちまち仲良しになった。詩織はおっとりした心根の優しい子であった。施設で初めて会ったときの、あの外界のすべてから身を守ろうとするかたくなに結んだ口元は、母や兄の思いやりに氷解したのであろうか。いつも緩やかにほほ笑みをたたえていた。

 しかし、突然葉山家に女の子がやってきて、突然小学校に入ってきた。近所の目や、学校の子供たちの目はやっかいであった。

 近くの小学校に編入した二日目のこと、詩織が泣きながら帰ってきた。博子が驚いて聞き出したところによると、クラスの男の子に悪い奴がいて、詩織を貰われ子だと囃し立てたらしい。そのとき、博子は詩織を抱き締めて言ったという。

「詩織、泣くことないんだよ。お前はね、私の妹の子なんだから。だから、このうちに来たんだから。何も悪いことをしたわけじゃない。詩織はしっかり勉強をして、そんなばかなことをする子たちを見返してやりなさい。詩織はねえ、今のその、素直ないい子のままでいいんだよ」

 博子は詩織をしっかり抱き締めたまま、涙が止まり気持ちが静まるまでそのままでいるのである。孝秋は後でその話を聞いて、女親にはかなわないなと思った。心の中でただ、ありがたかった。

 浩二も詩織の力強い味方であった。学校の帰り道、子供たちに囲まれた中に詩織が泣いている。

「こらー、お前ら、女の子に何してる! 女の子をいじめるんじゃない!」

 浩二は華奢なつくりで、優しい子である。しかし、中学生の浩二は、小学生から見れば大きな大人と同じである。子供たちは慌てふためいて逃げていった。

 それから浩二は、なるべく詩織のそばにいるようになった。一端の保護者のつもりであろう。そのうち、詩織自身の心根の優しさが次第に周りを打ち解けさせ、近所にも学校にも友達は増えていった。

 心根の優しさだけではない。詩織は、人の心が読み取れる賢さを持っていた。人の心を和らげ、人間関係を円滑にしてしまう術を知っていた。そして、人を傷つけることを決してしなかった。賢い詩織は、宮崎の父母のことを一切話そうとはしなかったし、幼いころを懐かしんでいる様子を見せることなど全くなかった。しかし、一度だけ孝秋に生みの母を語ったことがある。詩織は普段から話し方も緩く、性格も鷹揚であった。詩織が中学生になったばかりのころ、孝秋が何気なく詩織に、「お前はおっとりしているね」と言ったときのことだ。

「宮崎の人って、皆私と同じよ。皆おっとりした話し方するし、のんびりしてるし。私、ここに来た初めのころはみんなの話についていけなかったもの」

「ああ、そうかい。お前の母親もそうだったかい?」

 心の底にずっとある、詩織の母親ってどんな女性だったのかという思いから、つい聞いてしまったのだ。

 父の思いがけない質問に一瞬戸惑いの色を見せたものの、詩織は頬を緩ませて静かに答えた。

「そうね。のんびりした人だった」

 遠い目をしてそう言ったきり、口を噤んでしまった。もともとおっとりした子が、育ての母のてきぱきした性格についていくべく、きりきり舞いで気を使っていたのかもしれない。詩織は、物事をそつなく的確に捌いていける女性になっていった。ふと見せた、遠い目をした詩織。その心の中を垣間見た思いがして、孝秋は切なかった。

 ともあれ、家族四人の平穏な日々が続いた。幸せな生活がそのまま永遠に続いていくことを、孝秋は疑いだにしなかった。


 詩織を引き取ってから、八年の時が流れた。

 立春を過ぎ梅の香りが漂うころ、アメリカに留学し、そのまま大学の講師にまでなっていた長男の修一が帰ってくることが決まった。若くして、千葉中央大学の助教授に迎えられるのだ。修一の研究テーマは医学の最先端を行くもので、世界から注目されていた。博子は修一の帰国を手放しで喜び、そのうろたえぶりは目を覆うばかりであった。

 孝秋が日本病理学会のレセプションに列席していたときのことである。

「葉山教授!」

 孝秋が突然の声に振り向くと、千葉中央大学の岡垣教授が笑顔で寄ってきた。

「岡垣です。この度、わが校にご子息をお迎えすることになりまして、大変ありがたく思っております」

「ああ、こちらこそ。お世話になります。何分まだ若輩者ですので、なにとぞよろしくお願いいたします」

「いやいや、あちらでももう実績を挙げておられますので、私共も心強い限りです。ところで、実は滝沢教授から頼まれ事がありまして」

「滝沢教授と申されますと、あの循環器疾患の研究で有名な……」

「そうです。実は滝沢教授には、二十九歳になられるお嬢様がおられまして、是非とも修一君のお相手にと」

「はあ?」

 滝沢教授は、千葉中央大学で権威のある医学部を率いる部長であった。そういえば、修一からの手紙に、アメリカでの学会で面識を得て、いろいろお世話になったとあったのを思い出した。

「滝沢教授は修一君のことを非常に買っておられまして、必ずや私の後を引き継いでくれる優れた人材だとおっしゃっておられます。お嬢様の佐和子様は私も会ったことがありますが、賢く優しい女性です。私に仲人になってくれと滝沢教授はすっかりその気で、全く気が早い。はっはっは。お写真まで預かってきておりまして、こんな所でなんですが」

 岡垣教授は、手にしていた封筒を孝秋に押し付けるように手渡した。

「また改めて奥様にもご挨拶にお伺いしますが、とりあえずよろしく」

 孝秋は家に帰ると早速、岡垣教授から預かった滝沢教授の娘の写真を博子に見せた。

「あまりに突然な話でびっくりしたよ」

「まあ、いいお話じゃないの。修一だって、もう三十二歳ですもの。いいかげん身を固めないと」

 修一は結婚するのは日本の女性と、と考えているらしく、今までその機会もないまま忙しさにかまけていたのだ。博子は写真を食い入るように見て言った。

「なかなかきれいで優しそうなお嬢様じゃないの。帰ってきたら、早速会わせてあげましょうよ」

「お前も気が早いな。まだまだ先のことだよ。まず、大学になじんで落ち着かないと」

「そうね。でも、楽しみが増えたわ。どんなお嬢様か、早く会ってみたいわ。あちらさまにも修一の写真とか履歴書とか、お渡ししたほうがいいんじゃないの」

「お前に任すよ」

「もう、あなたったら」

 口をすぼめてそう言いながらも、博子は機嫌よく顔を綻ばせた。


 修一の帰国が決まって、何やら葉山家は慌ただしくなった。詩織は既に十八歳になっていて、子供が好きで、保育科に通う短大生であった。浩二は春には大学を卒業する予定で、就職も決まった。

 修一を迎えるため、母はお祝いの料理の献立や部屋の模様替えなどに余念がない。そんな母を手伝って、詩織もまた不安と期待を膨らませていた。

(どんなお兄さんなんだろう。浩二兄さんとは似ていないという話だけれど、私を妹として受け入れてくれるのだろうか。うまく行かなかったらどうしよう)

 梅の季節が終わり、桜の開花が待たれる春まだ浅い日、修一が帰ってきた。父と浩二が飛行場まで迎えに行った。準備万端整えて、詩織は母と家で待った。母は立ったり座ったり落ち着かない。玄関のドアが開き、騒々しく男たちの声がした。

「お帰りなさい。まあ、修一、元気そうで。ああ、よかった。早く入って、さあさあ」

 母の大仰なほどの喜びようの陰に、詩織はそっと佇んでいた。その詩織の前に修一が姿を現した。意外と逞しく、父に似た顔立ちで切れ長の目が涼しげである。修一と詩織の目と目が合った。一瞬、時が止まった。今までのすべてがこの時のためにあったような、懐かしい人に会えたような、不思議な瞬間であった。

 どやどやと父と浩二が入ってきて、詩織も修一も押されるような形で居間に座った。テーブルにはご馳走がひしめいている。

「浩二、兄さんの荷物を部屋に持っていってちょうだい。修一、着替えが部屋に置いてあるから、着替えていらっしゃい」

 そうして、久しぶりの家族が揃って宴会が始まった。その中で、詩織は自分だけ場違いなような、落ち着かない気分であった。しばらくして、孝秋が今更のように気が付いたという顔をして、詩織を振り返った。

「ああ、そうだ。修一は実際に会うのは初めてなんだな。この子が詩織だよ。お前の妹だ。あんまりきれいな妹で、びっくりしたろう」

 冗談っぽく言って、大声で笑った。母に負けず劣らず、父もかなりの興奮状態なのである。

「ああ、びっくりしたよ。こんな美人に成長していたなんてねえ。早く帰ってくればよかったよ」

「お前、美人なだけじゃないぞ。心もきれいで優しくて、最高の妹だぞ」

 もう、既に父は酔っているかのようである。普段無口な父が、何と饒舌なことだろう。詩織は頬を赤らめてうつむいた。賑やかな宴会は延々と続き、笑い声はいつまでも葉山家にこだました。


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