後日談 兄へ出した招待状
花嫁の手袋につけ直したボタンは、朝の光の中では思ったより小さかった。
ミレイユがアルマン様の腕に手を掛け、食堂へ入ってくる。あの右の手首に、私が糸を通したのだと分かるのは、ここでは二人だけだ。私はそのことが嬉しかった。
兄は長卓を挟んで、私の斜め向かいに座っていた。玄関で会ったときには一礼して、それきり声を掛けてこなかった。
私の椅子の横にはルーシーに朝から何度も見てもらった小さな手提げがあり、皆に読む便箋が一枚、入っていた。
アルマン様の叔父様が短く開宴を告げた。いつスープが冷めるかと気を揉んでいたミレイユが、私にだけ見える角度で口を歪めた。
もう笑いたくなっている。私は立った。
「お二人に、友人としてお祝いを申し上げます。今日のために、とっておきの話を一つ持ってまいりました」
思ったより遠くへ声が届いた。食卓の端で、ミレイユのお母様が椅子を少し前へ動かした。
手の中で便箋が鳴った。紙の一行目には、いちばん頼りになったのは大きなパンでした、と書いてある。これからお話しすることを、ミレイユはもう知っている。昨日まで何度も読んだとおりに言えばよい。
「私が家を移りましたとき、ミレイユはお祝いに丸いパンを一つ、抱えて来てくれました。うちで一番大きなお皿にも収まらなくて、ナイフの刃が反対側まで届かなかったんです」
短い笑い声が上がった。
ほんの一息、目の前の文字を見失った。誰が笑ったのかを、私は確かめようとした。自分の書いたものを皆の前に持ち出したのは、今度は私自身だ。それでも体は、この先で何が起こるかを、昔のあの書斎に教わったままだった。
ミレイユが笑っていた。肩を揺らし、困ったように、アルマン様に耳打ちした。彼も笑った。あとで聞かせてくれと頼んでいるらしい。
あの日にも、二人でこんなふうに笑った。パンが大きかったからだ。そろえた指よりまだ外へはみ出す幅を、私は今も覚えていた。
やっと息が続いた。私は便箋を卓に置き、両方の手でその大きさを作った。離れた席の方にも見えるように、少し持ち上げた。
「これくらいは、ありました。ミレイユは二泊するから大丈夫と請け合いました。けれど、その翌朝は伯母が来てくれましたし、三日目には、私たちが部屋で眠っている間に、うちのルーシーが残りを薄く切って全部焼いてくれました。私がひと目見て二人ではとても食べきれないと思ったものを、最後の一切れまで、みんなで美味しくいただきました」
伯母が笑っている。ルーシーも聞いていたら、大きなナイフを一本出すくらいで何を仰いますと照れただろう。
私は杯を取った。
「アルマン様。いつか、お二人の手に余るほど大きなものが新しいお家へ届いたら、どうぞ私を呼んでください。ナイフを持って、食べるのをお手伝いしにまいります。……伯母を連れてくるかどうかは、大きさを見て決めます」
今度は、笑った方へ私も笑い返せた。
「お二人の食卓が、いつも賑やかでありますように。ご結婚、おめでとうございます」
皆の杯が上がる中、アルマン様が花嫁を見た。ミレイユの鼻が赤かった。彼は自分の手巾を渡し、彼女の分も代わって杯を持ち上げた。
私は座った。便箋の裏を指で擦っていたことに気づいた。若い花嫁が友人と別れるのを寂しがったことは、この食卓の誰にも知らせていない。ちゃんと、言いたかったことだけを言えた。
食後にミレイユが来て、手袋のまま私を抱き締めた。
「ねえ。アルマンったら、帰りの馬車にパンを積むところを想像したらしくて、もっと大きな馬車が要るかなって」
「先に椅子が乗っているかもしれないからね」
顔を見合わせたあと、私たちは少しだけ泣いた。ほんの少しで済んだのは、次に会う日をもう決めていたおかげだと思う。
* * *
館を辞すころ、兄の馬車が玄関へ着いた。
兄は御者に私の馬車を先へ回すよう合図し、自分は階段の脇へ下がった。以前なら、家まで送るぞと当然のように隣へ乗せただろう。私が階段を下りきっても、兄はそこにいた。
「お兄様。今日はお祝いの席でお会いできて、よかったです」
「僕も、よかった」
そこで言葉が切れた。
用件を今のうちに済ませてしまおうかと、兄が迷っているように見えた。私も、何か無難な話を残していきたかった。私から声を掛けるまで、そっとしておいてくれた人に、何か一つくらい。
「庭で捕まえた虫に、青い脚を六本も描いたのを覚えていらして?」
「覚えている。一本、紙からはみ出していた」
私の知っている兄の声だった。
手紙は宝物だったと、あの日にも言われた。あのときは、そんならどうして、としか答えられなかった。今日は思い出す順序が少し違った。脚を一本、どうしても小さな紙に収められず、端まで青く塗った八歳の私がいた。その子に、あの手紙を書いてよかったよと言ってやりたくなった。
「私は七本描いた気がします」
「それで八本目が裏へ回っている。虫にしては立派だろう」
可笑しくて、声が出た。兄も笑ったが、すぐ目を伏せた。
「ごめん。今のは――」
「今のは、私も可笑しいの」
兄が顔を上げた。私はまだ笑っていた。手紙を書いた子供の腕が、いくらでも脚を描き足してしまう様子が目に浮かんだ。
私の馬車が来てしまった。御者が降り、扉を開けた。
「いつか、あの絵をもう一度見たいわ。私がお願いしたときに、持ってきてくださる?」
「もちろんだ」
「見せてもらったあとも、お兄様が持っていてね。八歳の私は、お兄様にあげたつもりだったから」
兄は頷いた。私は自分の馬車へ乗った。
家まで送ってもらうことも、屋敷へ戻ることもなかった。それでも、言葉を残してきた玄関を振り返ると、次に会う日を自分で決めたいと思えた。
五日後、私は兄に手紙を書いた。
子供のころの便箋を一枚と、小さな焼き菓子を一つずつ持ち寄って、伯母の庭でお茶をしませんか。晴れれば土曜日の三時に。一時間ほどですけれど。
その下には、書こうかどうしようかと朝から迷っていたことを、ようやく書いた。
『春のうちに、お兄様に会いたいです』
二晩眠れずに書いた恋文のなかにも、春があった。誰かが笑った声を、まだ思い出せる。けれども、春という言葉を、あの書斎へ置いてくることはなかったのだ。
私は封をした。
土曜日の三時、兄は青い脚の虫を持ってきた。
庭の卓へ便箋を広げると、脚は裏表合わせて九本あった。二人とも足りなかった。数え直してから、伯母の皿から林檎の焼き菓子を一つもらった。
「四時には帰るよ。あと十五分で、昔のお前からもう一本くらい脚が生えてこないか、しっかり見ておかないと」
兄の指が、茶色く褪せた便箋の隅を伸ばした。
私はその向かいへ椅子を引き直した。残りの十五分を、この人と過ごすのが楽しみだった。
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