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【連載版】私の恋文を笑った婚約者より、兄が許せません  作者: 堀吉 蔵人


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3/5

あなたに座ってほしい椅子

 玄関には、鞄が二つ置かれていた。

 兄は客を帰してから下りてきた。私は外套の留め金を掛けているところだった。うまく指が動かず、ルーシーに手伝ってもらった。

 兄は、私たちのそばで足を止めた。


「クレール。すまなかった」


 私は兄を見た。

 昨日、聞きたかった言葉だった。たった一晩なのに、今はその言葉を受け取るために、随分遠くから戻らなければならない気がした。

 兄が、握っていた手をほどいた。


「昨夜は、エドガーの前で君の味方をするのが、気恥ずかしかった。妹の言い分ばかり聞く兄だと思われたくなかった。君なら、最後には分かってくれると……勝手に思っていた」


 私は聞いていた。

 その説明で、胸の痛みが軽くなることはなかった。私が泣くことより、友人にからかわれることの方が兄には嫌だったのだと、はっきりしただけだった。


「分かりました。どうして笑ったのかは」

「今すぐ許してくれとは言わない。ただ、ここを出ていく必要までは――」

「あります」


 兄が黙った。

 私は外套の襟を直した。小さな動作を一つ終えると、次の言葉を言う力が出た。


「お兄様が謝ってくださったことと、私がこの家で安心して暮らせることは、同じではありません」


 言い終えると、涙が落ちた。

 兄は手を伸ばしかけ、今度は途中で止めた。それを見て、私は余計に悲しくなった。以前の兄なら、私は自分からその手を取っていたのだ。

 兄を憎いと思った。どうして、これほど好きだった人を、私に怖がらせたのだろう。


「エドガー様に笑われたことは、もちろん許せません。でも、私は、お兄様に聞いてほしかったんです。ひどいことをされたって、帰ってきて、泣きたかった。そこに、お兄様もいた」


 うまく息が吸えず、言葉が切れた。

 兄は、すまない、ともう一度言った。私は頷けなかった。


「しばらく、会いに来ないでください。連絡が必要なことは、手紙でお願いします。返事を待っているからと、何度も催促しないで」

「……いつなら、帰ってくる」

「帰る日を、今日は決めません」


 兄の目が、鞄へ向いた。

 昨夜のように、明日になればと言いかけて、口を閉じた。私が本当に行くのだと、やっと分かったのかもしれなかった。

 私はルーシーと外へ出た。御者が鞄を積み、馬車の扉を開けてくれた。


「クレール」


 呼ばれて、振り返った。

 兄は玄関の段の上にいた。子供のころ、出かける兄を見送っていた場所に、今は兄が立っている。


「君が書いてくれた手紙は、宝物だった。それは、嘘じゃなかった」


 胸が痛かった。

 それを信じたい気持ちは、今もあった。だから、簡単に、全部嘘だったと言って捨てることもできなかった。


「だったら、笑わないでほしかった」


 兄の顔が歪んだ。

 私は馬車へ乗った。扉が閉まるまで、兄はもう私を呼ばなかった。


* * *


 伯母の家へ着くと、用意された部屋で泣いた。

 食事の席でも泣いてしまい、温かいスープが冷めた。アデル伯母様は、温め直しましょうと皿を下げさせた。何があったのか、今すぐ順序立てて話すようには求めなかった。

 それがありがたくて、また泣いた。


 三日後、婚約解消についての正式な書面が届いた。

 兄は、私が解消を申し出た理由を先方へ伝えていた。返ってきた書面の内容を確かめ、私は署名した。手続きが終わったからといって、エドガー様を好きだった時間まで消えるわけではなかったが、もう彼の婚約者ではなかった。

 兄からは、あの二人の前で自分が加担した事実を改めて認め、私が許したと周囲へ話さないよう伝えたという報告も来た。


 手紙の最後に、体を大事に、とあった。

 私はそこを長く見た。書いた人の声が分かる字だった。会いたいという気持ちと、まだ会いたくないという気持ちが、同じ紙の上へ落ちてきた。

 受け取りました、とだけ返した。帰るとは書かなかった。


 ひと月の間に、私は伯母の家から歩ける場所へ小さな住まいを借りた。

 家を選ぶときには、初めに見つけた物件は一人で管理するには大きいと分かり、部屋の少ない方へ変えた。ルーシーには条件を相談して、そのまま働いてもらうことになった。伯母も折に触れて来てくれる。

 兄の屋敷にいたころより、考えなければならない用事は増えた。それでも、誰が訪ねてきてよいかを、自分で決められた。


 ミレイユへ手紙を書いたのは、引っ越しから三日目だった。

 寄宿学校のころからの友人で、今も毎月便りを交わしている。新しい住所を知らせるだけなら、短く書けた。その下へ、会いたいと書こうとして、ペンが止まった。

 大げさな声が耳の奥へ戻ってきた。


 私はペンを置き、窓を開けた。

 通りの向こうで、パン屋が看板を裏返している。買い物帰りの女の子が、大きな籠を両腕で抱えていた。いつもの夕方だった。

 ミレイユに会いたかった。最近あったことを聞いてほしかったし、彼女が前の手紙で書いていた、庭の木が倒れた騒ぎの続きも聞きたかった。

 その気持ちまで、つまらない挨拶の中へ隠す必要はないはずだった。


『新しい家に、あなたに座ってほしい椅子を一つ置きました。会いたいです。泊まりに来てもらえたら、とても嬉しい』


 書いたあとで、顔が熱くなった。

 いかにも待ち構えているようだと思った。実際、待ち構えていた。来る日が決まれば、きっと朝から窓の外を何度も見るだろう。

 私は書き直さずに封をした。


 五日後、ミレイユから返事が来た。

 来週の木曜日に行く、二泊してよいか、椅子のほかに寝台も空いているか。その三つを読んだところで、私は笑ってしまった。

 寝台はある。朝食も出せる。庭の木の話を忘れずに持ってきて。

 そう返してから、客用の部屋の窓を開けに行った。


 木曜日、私は予想したとおり、何度も外を見た。

 昼過ぎに馬車が止まったときには、ルーシーより先に玄関へ着いていた。扉を開けると、ミレイユが大きな包みを抱えて立っていた。


「会いたかった!」


 口から出た声は、自分でも驚くほど大きかった。

 彼女は包みをルーシーへ渡し、両腕を広げた。


「私も。あなたの手紙を読んで、すぐ来たくなったのよ」


 抱きつくと、懐かしい香りがした。

 私は笑っているつもりだったのに、目から涙が出た。ミレイユの肩へ顔をつけ、もう一度、会いたかったと言った。彼女は、うん、と答えて背中を撫でた。

 同じ言葉を繰り返しても、面倒だとは言われなかった。


 落ち着いてから包みを開けると、編んだ籠から丸いパンが現れた。

 とても大きい。私は両手を広げて、その幅を確かめた。


「これ、二人で食べるの?」

「うちの料理人が、新しい家には大きなパンを持っていくといいって。私も、こんなに大きいとは思わなかったわ」


 ミレイユが真面目な顔で言うので、笑いが止まらなくなった。

 ルーシーも横から覗き、大きい方のナイフを出してきますと言った。私は伯母にも声を掛けようと決め、余ったら明日、薄く切って焼こうと提案した。

 明日の朝にもミレイユがここにいる。そのことを思うと、胸が温かくなった。


「私の椅子は、どれ?」


 食堂へ入ると、彼女が尋ねた。

 私は窓際の一脚を引いた。午後の光が差す、座ると庭の小さな木が見える席だった。ミレイユは腰を下ろし、私の方へ体を向けた。


「では、まず木が倒れた話から。あれね、実は父が切ろうとしていた木とは別だったの」


 私はパンを切る手を止めた。

 続きを聞きたくて、身を乗り出した。ミレイユが得意そうに話し始めるので、今度は私も、引っ越しで間違えて運ばれてきた椅子の話をしようと思った。

 伝えたいことが、いくつもあった。

 今日はそれを、楽しみにしてくれる人が、目の前に座っていた。

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