あなたに座ってほしい椅子
玄関には、鞄が二つ置かれていた。
兄は客を帰してから下りてきた。私は外套の留め金を掛けているところだった。うまく指が動かず、ルーシーに手伝ってもらった。
兄は、私たちのそばで足を止めた。
「クレール。すまなかった」
私は兄を見た。
昨日、聞きたかった言葉だった。たった一晩なのに、今はその言葉を受け取るために、随分遠くから戻らなければならない気がした。
兄が、握っていた手をほどいた。
「昨夜は、エドガーの前で君の味方をするのが、気恥ずかしかった。妹の言い分ばかり聞く兄だと思われたくなかった。君なら、最後には分かってくれると……勝手に思っていた」
私は聞いていた。
その説明で、胸の痛みが軽くなることはなかった。私が泣くことより、友人にからかわれることの方が兄には嫌だったのだと、はっきりしただけだった。
「分かりました。どうして笑ったのかは」
「今すぐ許してくれとは言わない。ただ、ここを出ていく必要までは――」
「あります」
兄が黙った。
私は外套の襟を直した。小さな動作を一つ終えると、次の言葉を言う力が出た。
「お兄様が謝ってくださったことと、私がこの家で安心して暮らせることは、同じではありません」
言い終えると、涙が落ちた。
兄は手を伸ばしかけ、今度は途中で止めた。それを見て、私は余計に悲しくなった。以前の兄なら、私は自分からその手を取っていたのだ。
兄を憎いと思った。どうして、これほど好きだった人を、私に怖がらせたのだろう。
「エドガー様に笑われたことは、もちろん許せません。でも、私は、お兄様に聞いてほしかったんです。ひどいことをされたって、帰ってきて、泣きたかった。そこに、お兄様もいた」
うまく息が吸えず、言葉が切れた。
兄は、すまない、ともう一度言った。私は頷けなかった。
「しばらく、会いに来ないでください。連絡が必要なことは、手紙でお願いします。返事を待っているからと、何度も催促しないで」
「……いつなら、帰ってくる」
「帰る日を、今日は決めません」
兄の目が、鞄へ向いた。
昨夜のように、明日になればと言いかけて、口を閉じた。私が本当に行くのだと、やっと分かったのかもしれなかった。
私はルーシーと外へ出た。御者が鞄を積み、馬車の扉を開けてくれた。
「クレール」
呼ばれて、振り返った。
兄は玄関の段の上にいた。子供のころ、出かける兄を見送っていた場所に、今は兄が立っている。
「君が書いてくれた手紙は、宝物だった。それは、嘘じゃなかった」
胸が痛かった。
それを信じたい気持ちは、今もあった。だから、簡単に、全部嘘だったと言って捨てることもできなかった。
「だったら、笑わないでほしかった」
兄の顔が歪んだ。
私は馬車へ乗った。扉が閉まるまで、兄はもう私を呼ばなかった。
* * *
伯母の家へ着くと、用意された部屋で泣いた。
食事の席でも泣いてしまい、温かいスープが冷めた。アデル伯母様は、温め直しましょうと皿を下げさせた。何があったのか、今すぐ順序立てて話すようには求めなかった。
それがありがたくて、また泣いた。
三日後、婚約解消についての正式な書面が届いた。
兄は、私が解消を申し出た理由を先方へ伝えていた。返ってきた書面の内容を確かめ、私は署名した。手続きが終わったからといって、エドガー様を好きだった時間まで消えるわけではなかったが、もう彼の婚約者ではなかった。
兄からは、あの二人の前で自分が加担した事実を改めて認め、私が許したと周囲へ話さないよう伝えたという報告も来た。
手紙の最後に、体を大事に、とあった。
私はそこを長く見た。書いた人の声が分かる字だった。会いたいという気持ちと、まだ会いたくないという気持ちが、同じ紙の上へ落ちてきた。
受け取りました、とだけ返した。帰るとは書かなかった。
ひと月の間に、私は伯母の家から歩ける場所へ小さな住まいを借りた。
家を選ぶときには、初めに見つけた物件は一人で管理するには大きいと分かり、部屋の少ない方へ変えた。ルーシーには条件を相談して、そのまま働いてもらうことになった。伯母も折に触れて来てくれる。
兄の屋敷にいたころより、考えなければならない用事は増えた。それでも、誰が訪ねてきてよいかを、自分で決められた。
ミレイユへ手紙を書いたのは、引っ越しから三日目だった。
寄宿学校のころからの友人で、今も毎月便りを交わしている。新しい住所を知らせるだけなら、短く書けた。その下へ、会いたいと書こうとして、ペンが止まった。
大げさな声が耳の奥へ戻ってきた。
私はペンを置き、窓を開けた。
通りの向こうで、パン屋が看板を裏返している。買い物帰りの女の子が、大きな籠を両腕で抱えていた。いつもの夕方だった。
ミレイユに会いたかった。最近あったことを聞いてほしかったし、彼女が前の手紙で書いていた、庭の木が倒れた騒ぎの続きも聞きたかった。
その気持ちまで、つまらない挨拶の中へ隠す必要はないはずだった。
『新しい家に、あなたに座ってほしい椅子を一つ置きました。会いたいです。泊まりに来てもらえたら、とても嬉しい』
書いたあとで、顔が熱くなった。
いかにも待ち構えているようだと思った。実際、待ち構えていた。来る日が決まれば、きっと朝から窓の外を何度も見るだろう。
私は書き直さずに封をした。
五日後、ミレイユから返事が来た。
来週の木曜日に行く、二泊してよいか、椅子のほかに寝台も空いているか。その三つを読んだところで、私は笑ってしまった。
寝台はある。朝食も出せる。庭の木の話を忘れずに持ってきて。
そう返してから、客用の部屋の窓を開けに行った。
木曜日、私は予想したとおり、何度も外を見た。
昼過ぎに馬車が止まったときには、ルーシーより先に玄関へ着いていた。扉を開けると、ミレイユが大きな包みを抱えて立っていた。
「会いたかった!」
口から出た声は、自分でも驚くほど大きかった。
彼女は包みをルーシーへ渡し、両腕を広げた。
「私も。あなたの手紙を読んで、すぐ来たくなったのよ」
抱きつくと、懐かしい香りがした。
私は笑っているつもりだったのに、目から涙が出た。ミレイユの肩へ顔をつけ、もう一度、会いたかったと言った。彼女は、うん、と答えて背中を撫でた。
同じ言葉を繰り返しても、面倒だとは言われなかった。
落ち着いてから包みを開けると、編んだ籠から丸いパンが現れた。
とても大きい。私は両手を広げて、その幅を確かめた。
「これ、二人で食べるの?」
「うちの料理人が、新しい家には大きなパンを持っていくといいって。私も、こんなに大きいとは思わなかったわ」
ミレイユが真面目な顔で言うので、笑いが止まらなくなった。
ルーシーも横から覗き、大きい方のナイフを出してきますと言った。私は伯母にも声を掛けようと決め、余ったら明日、薄く切って焼こうと提案した。
明日の朝にもミレイユがここにいる。そのことを思うと、胸が温かくなった。
「私の椅子は、どれ?」
食堂へ入ると、彼女が尋ねた。
私は窓際の一脚を引いた。午後の光が差す、座ると庭の小さな木が見える席だった。ミレイユは腰を下ろし、私の方へ体を向けた。
「では、まず木が倒れた話から。あれね、実は父が切ろうとしていた木とは別だったの」
私はパンを切る手を止めた。
続きを聞きたくて、身を乗り出した。ミレイユが得意そうに話し始めるので、今度は私も、引っ越しで間違えて運ばれてきた椅子の話をしようと思った。
伝えたいことが、いくつもあった。
今日はそれを、楽しみにしてくれる人が、目の前に座っていた。
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