十一通と指輪
翌朝、書斎には昨夜と同じ四人がいた。
私が、手紙を聞いた方にも立ち会ってほしいと伝えたのだ。私の知らないところで、最後には笑って許したことにされるのは嫌だった。
エドガー様の前には、昨日の手紙の束が置かれていた。私を見ると立ち上がり、困った恋人をなだめるような笑顔を作った。
「よく眠れたかい。昨日は驚かせたね」
「眠れませんでした」
私は向かいの椅子へ座り、小箱と十一通の手紙を卓上へ置いた。
エドガー様が小箱を開けた。中の指輪を見たとたん、微笑みが止まった。
「本気なのか」
「昨夜、そう申し上げました」
「皆の前で少しからかわれたくらいで、二年の婚約をなくすのか。君は、僕が好きなんだろう?」
その問いに、胸が痛んだ。
好きだった。彼が門をくぐってくるだけで、窓辺へ行くのを我慢できなかった。隣を歩けば、自分の歩幅を少し大きくした。あの手紙を書いたころの気持ちを、今すぐ全部消すことはできない。
彼は、それを分かって言っているのだ。
「好きでした。あなたが病気になったら心配しましたし、会える日は嬉しかった。だから、あなたにだけ手紙を書きました。今ここにいらっしゃる皆様へ送ったものではありません」
ジュール様が目を伏せた。バスティアン様は、何か言いかけてやめた。
エドガー様は眉を寄せた。
「そんなに恥ずかしかったなら、もう読まないよ。それでいいだろう」
「私の手紙が恥ずかしいものだった、ということにはしないでください」
机の下で握った指に、爪が食い込んだ。
昨夜は、ただ顔を隠したかった。今も、あの声を思い出すと体が熱くなる。それでも、彼が笑いやすいように、自分の気持ちを粗末なものに変えるつもりはなかった。
「私が本気で書いたものを、あなたは笑い物にしました。お兄様も、皆様も。それを聞いた私が傷ついても、今度は騒ぎすぎだと笑う。私は、もうあなた方の前へ気持ちを差し出したくありません」
兄は、窓際の椅子に座ったままだった。
昨日より顔色が悪かったが、何を考えているかは分からない。私には、それを聞き出してあげる余裕はなかった。
エドガー様が兄を見た。
「オスカー、君からも何か言ってくれ。君の妹は、少し思い詰めている」
いつもなら、そこで兄が笑う。
クレールは昔からこうなんだ。少し放っておけば機嫌が直る。エドガーも困ったものだが、君のことは大事にしているんだよ。
私は、その声を聞く前に立った。
「お兄様から説得されても、変えません。私は今日、アデル伯母様の家へ行きます。馬車も、支度してもらいました」
「家を出るのか?」
兄がこちらを見た。
私は頷いた。椅子の背を握らなければ、膝が震えそうだった。
「ここにいると、またお兄様に泣きつきたくなると思います。今夜こそ分かってくださるかもしれないと、待ってしまう。もう、それをしたくないんです」
兄の口が、少し開いた。
私は卓上の便箋へ手を伸ばした。エドガー様が押さえていた指をどけないので、その手を見た。
「返してください」
「だから、待てと言っている。オスカー、止めろよ。こんなことで家まで出るなんて、どうかしている」
兄が立ち上がった。
私のそばへ来るのかと思った。体が強張ったが、彼はエドガー様の方を向いた。
「……僕も、笑った」
低い声だった。
エドガー様は、ほっとしたように頷いた。
「そうだろう。皆でふざけていただけで」
「違う。今、君をかばうつもりで言ったんじゃない」
兄の声が途切れた。
言葉を探す間が長く、私は自分の呼吸を数えた。兄のために続きを言いたくはなかった。何を言うかは、兄が決めることだった。
「ジュールが止めかけたのに、僕が笑った。妹は大げさだと、僕が言った。本人には言うなとも。僕がああ言わなければ、そこでやめられたかもしれない」
ジュール様が顔を上げた。
兄は私の顔へ逃げず、昨夜の仲間を見ていた。
「クレールが嫌がらないと思っていたわけじゃない。傷つくと分かっていた。だから、聞かせなければいいと思った」
「おい。今さら一人だけ、立派な兄の顔をするなよ」
エドガー様の言葉に、兄の頬が赤くなった。
私は息を止めた。兄は人前で愚かだと思われることを嫌う。だから昨日、妹を子供扱いして笑う方を選んだのではないか。
また、その方へ戻るのだろうか。
「立派なことなんて、していない」
兄はそう言った。
「君に手紙を読ませて笑ったのは、僕だ。それを、妹が騒いだ話に変えるのはやめる。僕から、この件は冗談で済んだと誰かに話すこともない」
エドガー様は、まだ手紙を押さえていた。
兄はその手を見下ろした。
「返してくれ。クレールは、昨夜からそう言っている」
「君があとで取りなしてくれればいいだけだろう。僕たちの付き合いまで、こんなことで」
「取りなさない。君と酒を飲むために、妹へ我慢しろと言うのは、もうやめる」
部屋が静かになった。
私は兄を見なかった。見たら、よく言ってくださったと感謝してしまいそうだった。昨日の兄もそこにいたのに、今日だけで帳消しにしたくなる自分が、怖かった。
便箋を押さえていた指が、ようやく離れた。
私は手紙を取り、日付を確かめた。
誕生日のもの、彼が遠出をしたときのもの。どれも、自分が書いた日を覚えていた。誰かの手でついた葡萄酒の染みが一つあり、見つけた瞬間、また泣きたくなった。
それでも数えた。昨夜取り戻した一通を除き、控えのあるものは、すべて揃っていた。
「ほかの方に渡した手紙や、写しはありますか」
エドガー様は、ない、と答えた。
その返事を私は信じ切れなかった。兄は、私が昨夜取り戻した一通も含めれば、ここで見たものはすべて返されたと補った。知っている範囲だけを言う、硬い声だった。
ジュール様が私へ頭を下げた。
「聞いてしまったことも、笑ったことも、申し訳なかった。ほかへ話すことはしません」
バスティアン様も謝った。
私は、謝罪を聞きました、とだけ答えた。場を収めるために、大丈夫ですとは言えなかった。
エドガー様が、指輪の箱を閉じた。
「君は、気持ちが変わったらどうするつもりだ」
「あなたとの婚約を終えてほしいという気持ちは、変わりません。正式な手続きのお返事を、お待ちします」
その人と暮らす家のことを、何度考えたか分からない。
窓には明るい色の布を掛けたい。庭へ小さな卓を出し、二人でお茶を飲みたい。彼が帰ってきたら、話したかったことを順番に聞いてもらおう。
その相手が、私の言葉を持ち出して笑っていた。
私は、十一通の手紙を彼の方へ押した。
もう一度だけ振り向いてくれるのを待つような気持ちは、まだ胸のどこかに残っていた。でも、その気持ちを理由に椅子へ座り直さなかった。
扉を開けると、廊下の先にルーシーが待っていた。
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