兄の笑い声
「あなたのいない春が来るくらいなら、冬が終わらなければいいのに」
書斎の中から聞こえた言葉に、足が止まった。
それは、私が書いた言葉だった。昨冬、婚約者のエドガー様が高い熱を出したと聞いて、二晩眠れなかったあとに書いた手紙。その一節を、ほかでもない彼が読み上げている。
甘く、息を震わせた、私とは似ても似つかない声だった。
「いやあ、冬のままでは困るな。狩りにも行けなくなる」
「大したものだ。僕にもそれくらい熱心な婚約者が欲しいよ」
笑い声がした。
扉は手の幅ほど開いていた。私は四人を夕食へ呼びに来ただけだった。エドガー様が久しぶりにいらっしゃるので、彼の好きな林檎の焼き菓子も用意してある。食後に一緒に食べられたらと、朝から楽しみにしていた。
書斎の奥で、紙をめくる音がした。
「でも、オスカーの前で読むのはまずいんじゃないか。実の妹だぞ」
そう言ったのはジュール様だった。
私は扉の縁にかけた指へ力を入れた。ようやく誰かが止めてくれる。お兄様が、こんなことを許すはずがない。
兄は笑った。
「クレールは昔から大げさなんだ。僕が学校へ戻るだけでも、この世の終わりみたいな手紙を寄越したよ」
「では、君はもう読み慣れているわけだ」
「まあね。本人には言うなよ。泣かれたら面倒だ」
四人の笑い声が重なった。
誰がいちばん大きく笑ったかは、分からない。ただ、兄の声だけは間違えようがなかった。子供のころ、私を肩車したまま走って、母に叱られたときと同じ声だった。
私は扉を押した。
「返してください」
エドガー様が顔を上げ、手にした便箋を卓上へ伏せた。
手紙は一通だけではなかった。彼の膝には、私が選んだ淡い水色の封筒が何通も載っていた。手近な卓上にも、開かれた便箋がある。
兄の笑顔が消えるのを、私は見た。
「クレール。どうしたんだ、急に」
「夕食を知らせに来ました。でも、その前に手紙を返してください。全部です」
自分の声が掠れていた。
恥ずかしかった。顔が熱くて、四人のうち誰の目も見たくなかった。膝の上でくしゃりと折れた便箋まで、裸で人前へ放り出された私の一部のように見えた。
エドガー様は紙を重ね、笑いかけてきた。
「そんな顔をしないでくれ。君が僕を好きだという話をしていただけだよ」
「私があなたを好きだったことは、知っています。書いたのは私ですから。あなたに、読んでほしくて書いたんです」
そこで息が詰まった。
好きだった、と言った自分の声が、耳に残った。
「皆様の前で笑っていただくためではありません。手紙を返してください。それから、婚約も終わりにしてください」
椅子の脚が床を擦った。兄が立ち上がったのだ。
「少し落ち着け。そんな話を、ここで始めるものではないだろう」
「私の手紙を読むのには、よい場所だったんですね」
兄は口を閉じた。
エドガー様が私の名を呼んだ。二年間、呼ばれるたびに嬉しかった名前が、今は、機嫌を直せと言うための言葉になっていた。
私は卓上へ手を伸ばし、自分の便箋を取った。
「明日の朝、残りも全部持ってきてください。あなたの手紙と指輪は、私からお返しします」
「待ってくれ。僕にはまだ話が――」
「今日は聞けません」
手紙の束を持ったまま、エドガー様は動かなかった。
無理に奪い合えば、また笑われる気がした。そう思う自分が嫌で、唇を噛んだ。私が嫌だと言っていることを、もう一度あの人たちの遊びにしたくなかった。
兄がこちらへ来かけたので、私は一歩下がった。
「夕食には出ません。私の分は、下げてもらいます」
廊下へ出てからも、背中が熱かった。
階段を上がるまで泣かなかった。部屋の扉を閉じ、鍵を回そうとしたところで、指が滑った。二度目にも回せず、三度目にようやく鍵が掛かった。そのまま取っ手へ額をつけた。
笑われていた。
私がこの家で笑われている間、兄もそこにいた。
* * *
エドガー様からの手紙は、全部で十一通あった。
領地へ帰った知らせ、舞踏会に来るかという問い、誕生日に贈った品への礼。短い手紙ばかりだったが、私はその短さも、忙しい人が自分のために時間を使ってくれた証拠だと思っていた。
十一通を机に並べた。書斎から持ち帰った自分の便箋は、いちばん端へ置いた。
昨冬、エドガー様は領地で熱を出した。
私には詳しいことが分からず、重い病ではないかと怖くなった。母も、初めはただの風邪だと言われていた。十二歳の私が寝室へ入れてもらえないうちに、母は亡くなった。
また、好きな人がいなくなる。
怖くて食事も喉を通らなかった私へ、兄は、詳しい様子を確かめてやると言ってくれた。
その兄が届いた知らせを見せてくれた夜、私はやっと眠れた。
手紙は、その翌朝に出したのだった。あなたが大切です。無事に春を迎えてください。私も一緒に、庭を歩きたいです。
何度書き直しても、私の文章は兄のようにすっきりしなかった。それでも最後には、伝わってほしいと思うことを全部書いた。
私は便箋の端を摘んだ。
破ってしまいたかった。細かくして燃やせば、あの声で読まれた文章を見なくて済む。
けれど、折れ目から破きかけたところで手が止まった。これを書いていた私は、何か悪いことをしたのだろうか。
好きな人が元気になってほしいと願ったことまで、間違いにしたくなかった。
扉が叩かれた。
兄の声だった。私は机の上を片づけず、鍵を開けた。入ってきた兄は、十一通の手紙を見て眉を寄せた。
「本当に返すつもりなのか」
「ええ。指輪も箱へ入れました」
「クレール、あれは酒の席の冗談だ。エドガーにも悪気はない。君が可愛いから、つい仲間に自慢したくなったんだろう」
私は兄の顔を見た。
先ほどまでは、部屋へ来た兄が、何と言うのか分からなかった。もしかしたら、真っ先に謝ってくれるかもしれないと、まだ思っていたのだ。
そうではなかった。
「お兄様にも、面白かったですか」
「だから、そんな深刻に受け取るなと言っているんだ」
「面白かったかと聞いています」
兄は困ったように息を吐いた。
私が幼いころ、欲しいものを諦めずに言い続けたときの顔だった。私は二十一歳になった。婚約者へ書いた手紙を、勝手に読まないでほしいと言っている。
それでも兄の前では、聞き分けの悪い子供になってしまうらしい。
「……あの文章は、少し大げさだっただろう。君だって、あとから読めばそう思うはずだ」
胸の奥で、何かが切れた。
「私は、怖かったんです!」
兄が肩を揺らした。
こんな大きな声を出したことは、ほとんどなかった。喉が痛んだが、止められなかった。
「お母様のときみたいに、お別れも言えないまま亡くなってしまったらどうしようって。それを、お兄様は知っていたでしょう。あの夜、私の隣に座って、手紙を見せてくださったでしょう!」
兄の視線が、机の上へ落ちた。
私は濡れた頬を手の甲で拭った。手巾を探している間に、言いたいことをまた飲み込んでしまいそうだった。
「あの方にとっては、笑える文章だったのかもしれません。でも、お兄様は、私が何を怖がっていたか知っていた。知っていて、一緒に笑ったんです」
「それは……そこまで考えていたわけでは」
「私が泣いたら面倒だから、本人には言うなとおっしゃいました。傷つくとは、分かっていたんですよね」
兄は何も言わなかった。
私は、その沈黙の間にも、昔のことを思い出してしまった。
初めて兄へ手紙を書いたのは八歳のときだった。寮にいる兄へ会いたくて、便箋いっぱいに同じことを書いた。帰ってきた兄はそれを持っていて、宝物が増えたと言った。私は嬉しくなり、次の手紙には、庭で見つけた虫の絵まで添えた。
「学校へ戻るお兄様に出した手紙も、本当は面白かったんですか」
聞きたくなかった。
聞かなければ、あの思い出だけは今までどおりにしておけたのに。
兄はすぐに首を振った。
「違う。あれは、本当に嬉しかった。今も取ってある」
「では、どうしてあんなふうに話したの」
返事は来なかった。
私は椅子へ座った。立っていられなくなったのだ。兄が近づき、私の肩へ手を置こうとしたので、体を引いた。
その手を避けるのが、こんなに辛いとは思わなかった。
「私に優しかったお兄様まで、いなかったことにしたくありません。でも、今夜笑っていたのもお兄様です。どちらかだけが本当だなんて、私には思えない」
兄の手が、行き場を失って下がった。
父が亡くなったのは五年前。家を継いだばかりの兄は忙しく、それでも私の話を聞く時間を作ってくれた。だから、私も兄を困らせたくなかった。兄の友人と婚約したときには、二人の大好きな人が家族になるのだと思った。
今日失ったのは、婚約者だけではなかった。
「婚約は終えます。お兄様に、あの方と私を仲直りさせてほしくありません」
「……今日は、もう休め。明日になれば、少しは」
「明日になっても、あの笑い声を忘れません」
私は扉の方を見た。
兄は何か言いかけ、結局、言わずに出ていった。鍵を回す音を聞かせるのはひどいことだろうかと、一瞬迷った。
それでも、回した。
その夜、伯母のアデルへ手紙を書いた。
明日からしばらく泊めてほしいこと、婚約を終えるつもりであること、詳しくは会って話したいこと。便箋を前にすると指が強張ったが、途中でやめなかった。
使いを頼むと、一刻ほどで返事が来た。部屋はある。いつでもおいで、と。
母が遺した資金から、成人した私には毎年決まった額が支払われていた。贅沢はできないが、暮らし方を選べば、兄の屋敷にいなくても生活できる。
伯母の家へ永久に置いてもらうつもりではなかった。まず離れたところで、次の住まいを探したかった。
私は侍女のルーシーに、明日の朝、馬車と荷物の支度を頼んだ。彼女には伯母の家へ同行してもらい、その後の勤め方は改めて相談したいと伝えた。
「お召し物は、どちらを持っていらっしゃいますか」
そう尋ねられて、私は衣装棚を開けた。
エドガー様が好きだと言った薄桃色の服を、最初に手へ取ってしまった。しばらく見つめてから戻し、深い緑の服を選んだ。着たときに、自分の目の色が明るく見えるのが好きだった。
荷物を選ぶたびに涙が出た。それでも、鞄の底は少しずつ埋まっていった。
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