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夕焼け電脳クラブ  作者: ナナメ横


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1/12

旧校舎のパソコンは、誰かの忘れ物を探している

 知らない記憶がある。


 いや、正確に言えば、記憶なのかどうかも分からない。


 ただ、時々、頭の中に妙な風景が浮かぶのだ。


 夕焼けに染まった廊下。


 窓の外で鳴いているヒグラシ。


 誰もいない教室。


 そして、知らない誰かの声。


『ねえ、葛城くん』


 女の子の声だった。


『私たち、ちゃんと大人になれるかな?』


 その問いかけに、俺は何かを答えようとした。


 けれど、どうしても声が出ない。


 目の前にいるはずの女の子の顔も、なぜだか思い出せなかった。


 それなのに。


 彼女が、とても大切な人だったことだけは分かる。


 そんな、どうしようもなく奇妙な感覚。


 そして、いつも最後には――。


 ぷつん。


 何かの電源が落ちるような音がして、記憶はそこで途切れる。


     ◇ ◇ ◇


「葛城《かつらぎ》くん!」


 耳元で突然名前を呼ばれ、俺は思わず顔を上げた。


「うおっ!?」


「うおっ、じゃないよ。もう放課後だよ?」


 目の前には、やけに楽しそうな女子が立っていた。


 朝比奈《あさひな》ナツキ。


 同じ二年三組のクラスメイトである。


 肩にかかるくらいの茶色い髪。落ち着きなく動く大きな目。制服のポケットには、いつも小さなメモ帳が突っ込まれている。


 新聞部所属。


 趣味は校内の噂話を集めること。


 特技は他人の都合を一切考えずに話しかけること。


 そして、俺の知る限り、世界で最も「面白そう」という言葉を信用してはいけない人間だった。


「……なんだ、朝比奈か」


「なんだとは失礼だねえ。せっかく起こしてあげたのに」


「頼んでない」


「でも、もう教室に誰もいないよ?」


 言われて周囲を見回す。


 確かに、教室には俺たち以外誰もいなかった。


 窓の向こうでは、運動部の掛け声が聞こえている。


 七月十一日、月曜日。


 期末試験も終わり、夏休みまであと十日ほど。


 教室の空気はすでに半分くらい夏休みになっていた。


「……寝てたのか、俺」


「ぐっすり。最後のホームルームが終わっても起きないんだもん」


「起こせよ」


「だから起こしたじゃん」


 なるほど。正論である。


 俺は机に突っ伏していた身体を起こし、軽く首を回した。


 妙に疲れていた。


 また、あの夢を見たせいだろうか。


「それでさ、葛城くん」


「ん?」


「ちょっと付き合ってほしいところがあるんだけど」


「断る」


「早い!」


「お前がそういう顔をしているときに、ろくなことがあった試しがない」


「ひどい偏見だなあ」


「先月、屋上に幽霊が出るって騒いで、生活指導の先生に三時間説教されたのは誰だ?」


「……あれは不可抗力」


「何がだよ」


「屋上に人影が見えたんだってば」


「用務員さんだっただろ」


「でも夜の八時に屋上にいたら普通びっくりするでしょ!」


「びっくりしたのは、勝手に校舎に残っていたお前を見つけた用務員さんだと思うぞ」


「うぐっ」


 朝比奈は胸を押さえ、わざとらしく後ずさった。


 それから、何事もなかったように笑顔へ戻る。


「まあ、そんな昔のことは置いといて」


「先月だぞ」


「今日はもっとすごい話があるの!」


 嫌な予感しかしない。


 俺は鞄を持ち、立ち上がった。


「じゃあな」


「待って待って待って!」


 制服の袖をつかまれた。


「旧校舎!」


「……は?」


「旧校舎の三階に、変なパソコンがあるんだって!」


 思わず足を止めた。


「パソコン?」


「そう。誰も使ってないパソコン室に、一台だけ電源が入るパソコンがあるらしいの」


「それの何が変なんだ」


「夜になると勝手に動くんだって」


「故障だろ」


「それも、誰もいないのに文字が打ち込まれるらしいよ」


「キーボードの故障だろ」


「インターネットにつながってないのに、メールが届くらしい!」


「……」


 そこまで聞いて、俺は少し考えた。


 そして結論を出す。


「迷惑メールだな」


「葛城くんってさあ!」


 朝比奈が頬を膨らませる。


「もうちょっと夢とかロマンとかないわけ?」


「あるぞ。夏休みに一日中ゲームをするという壮大な夢が」


「スケール小さっ!」


「人の夢を笑うな」


 俺は再び出口へ向かった。


 すると朝比奈は、今度は俺の前へ回り込んだ。


「お願い! 一緒に来て!」


「なんで俺なんだよ。新聞部の友達でも誘えばいいだろ」


「だって葛城くん、パソコン詳しいじゃん」


「人並みだ」


「家でパソコン使ってるでしょ?」


「今どき珍しくない」


「この前、先生のパソコン直してたし」


「あれはコンセントが抜けてただけだ」


「ほら、詳しい!」


「お前の中でパソコンに詳しい人間の基準が低すぎる」


 朝比奈は聞いていなかった。


 いや、聞こえてはいるのだろう。


 都合の悪い情報を処理しないだけだ。


「ね、ちょっとだけ! 十分でいいから!」


「十分な」


「うん!」


「何もなかったら帰るぞ」


「もちろん!」


 元気いっぱいの返事。


 こうして俺は、後になって何度も後悔することになる約束をしてしまった。


 たった十分。


 たったそれだけのつもりだったのだ。


     ◇ ◇ ◇


 夕凪《ゆうなぎ》高校の旧校舎は、本校舎の北側にある。


 三階建ての古いコンクリート校舎で、数年前に新校舎が完成してからは、ほとんど使われなくなっていた。


 一階には美術部の倉庫。


 二階には古い資料室。


 三階には、かつての情報処理室や視聴覚室が残されている。


 もっとも、俺は入学してから一度も三階へ上がったことがなかった。


「それで、どうやって入るんだ?」


 旧校舎の入口には、立入禁止の札がかかっていた。


 扉には当然のように鍵もかかっている。


「ふっふっふ」


 朝比奈が不敵に笑う。


「こんなこともあろうかと」


 スカートのポケットから、小さな鍵を取り出した。


「じゃーん!」


「……お前、それどこで手に入れた」


「借りた」


「誰に」


「白河《しらかわ》先輩」


「誰だよ」


「三年生の先輩。旧校舎のことなら何でも知ってるんだって」


「なんでそんな人が鍵を持ってるんだ?」


「さあ?」


「さあ、じゃないだろ」


「本人も『たぶん予備』って言ってたし」


「余計に不安になったんだが」


 朝比奈は鍵を差し込み、がちゃりと扉を開けた。


 途端に、古い建物特有の匂いが鼻をくすぐる。


 埃とワックス、それに湿ったコンクリートが混ざったような匂い。


 廊下には夕方の光が斜めに差し込み、床に長い影を落としていた。


 遠くから運動部の声が聞こえる。


 それなのに、この校舎の中だけは妙に静かだった。


「……なんか、懐かしい感じがするね」


 朝比奈がぽつりと言った。


「初めて来たんじゃないのか?」


「うん。でも、なんとなく」


 俺にも、その感覚は分かる気がした。


 古い掲示板。


 色の抜けたポスター。


 廊下の隅に積まれた机。


 つい数年前まで誰かが使っていたはずなのに、今では誰にも必要とされていない場所。


 俺たちは、ぎしぎし鳴る階段を上っていった。


 三階の一番奥。


 曇りガラスの扉に、かすれた文字でこう書かれていた。


『第二情報処理室』


「ここ!」


 朝比奈が振り返る。


「いよいよだよ、葛城くん!」


「なんでそんな嬉しそうなんだ」


「だって、何かありそうじゃん」


「何もないのが一番なんだよ、こういうのは」


「夢がないなあ」


「現実的と言ってくれ」


 扉に手をかける。


 鍵はかかっていなかった。


 少し力を込めると、がらがらと重い音を立てて開いた。


 その瞬間。


 どこかで、カチリ、と小さな音がした。


「……ん?」


「どうしたの?」


「いや、今、何か」


 俺は室内を見回した。


 机が三列。


 古いデスクトップパソコンが十数台。


 ほとんどのモニターは分厚いブラウン管型で、黄ばんだプラスチックの表面には埃が積もっている。


 壁際にはプリンター。


 棚にはフロッピーディスクの入ったケース。


 そして、窓際の一番奥に。


 一台だけ、ほかよりも少し新しそうなパソコンが置かれていた。


「あれじゃない?」


 朝比奈が指さす。


 そのパソコンだけ、机の上が妙にきれいだった。


 周囲の机には埃が積もっているのに、そこだけ誰かが最近拭いたように見える。


「……誰か使ってるんじゃないのか」


「でも、もう何年も使われてないって聞いたよ」


「じゃあ掃除したんだろ」


「葛城くん、すぐそうやって夢を壊す」


「壊してない。守ってるんだ。現実を」


 俺はパソコンの背面をのぞき込んだ。


 電源ケーブルはつながっている。


 ただし、LANケーブルは見当たらない。


 机の下に小さなハブらしきものがあったが、そちらの電源も入っていなかった。


「ネットにはつながってないみたいだな」


「じゃあ噂が本当だったらすごいね!」


「噂が嘘なら普通だな」


「もう!」


 朝比奈は俺の肩を軽く叩き、電源ボタンへ手を伸ばした。


「じゃ、起動しまーす!」


「待て。古いパソコンなんだから、もう少し慎重に――」


 カチッ。


 押した。


 ……人の話を聞くという概念が、この女には存在しないらしい。


 しばらくして、本体の中から低い駆動音が聞こえてきた。


 ぶうん、とブラウン管モニターが唸る。


 画面に英数字が表示され、やがて見慣れないほど古い起動画面が現れた。


「おおっ!」


 朝比奈が歓声を上げる。


「動いた動いた!」


「そりゃ電源入れたからな」


「なんか昔のゲームみたい!」


「Windows 98だろ、これ」


「へえ。私たちが小学生の頃のパソコン?」


「そんなところだな」


 パソコンはしばらく、がりがりとハードディスクを鳴らしていた。


 やがて起動が終わり、デスクトップ画面が表示される。


 青緑色の背景。


 マイ コンピュータ。


 ごみ箱。


 Internet Explorer。


 それから、見慣れないアイコンが一つ。


 夕焼け色の、小さな封筒。


 名前は――。


『YUYAKE』


「……何これ?」


 朝比奈が画面をのぞき込む。


「メールソフトか?」


「開いてみようよ」


「待てって。まず確認してから――」


 カチカチッ。


「開いちゃった」


「おい」


「だって気になるじゃん!」


「お前、絶対いつか変なウイルス踏むぞ」


「そしたら葛城くんに直してもらう」


「断る」


 画面に小さなウィンドウが開いた。


 灰色の、ずいぶん簡素な画面。


 上部には『YUYAKE MAIL SYSTEM』と表示されている。


 その下に、青い文字が一行。


『受信ファイル:1件』


「……受信?」


 俺は画面へ顔を近づけた。


 間違いない。


 ファイルが一つ届いている。


「ほら! ほらほら!」


 朝比奈が俺の肩を揺さぶる。


「噂、本当だったじゃん!」


「落ち着け。前に誰かが保存したファイルかもしれないだろ」


「じゃあ見よう!」


「だから待てって!」


 しかし、朝比奈の手はもうマウスに伸びていた。


 ダブルクリック。


 受信一覧が開く。


 そこには一件だけ、ファイル名が表示されていた。


『REQUEST_001.LZH』


 送信者の欄は空白。


 受信日時も空白。


 ファイルサイズは、わずか数キロバイト。


「……LZHか」


「えるぜっとえいち?」


「圧縮ファイルだよ。中に別のファイルが入ってる」


「へえ。開ける?」


「解凍ソフトがあればな」


 試しにスタートメニューを確認すると、それらしいソフトがインストールされていた。


 誰が用意したのかは知らないが、少なくとも使える状態ではあるらしい。


「どうする?」


 朝比奈が聞いた。


 俺は少し考える。


 知らないファイルを開くのは、あまり褒められた行為ではない。


 しかも、何年も使われていない学校のパソコンだ。


 本来なら、そのまま電源を落とすべきなのだろう。


 ……ただ。


 正直に言えば、少しだけ気になっていた。


「中身を見るだけだぞ。変なプログラムは実行しないからな」


「了解!」


 俺はファイルを解凍した。


 中から現れたのは、テキストファイルが一つ。


『ONEGAI.TXT』


「……お願い?」


 朝比奈が首をかしげる。


「ずいぶん可愛い名前だね」


「ウイルスじゃなきゃいいけどな」


 俺はテキストエディタでファイルを開いた。


 白い画面。


 黒い文字。


 そこには、たった二行だけ書かれていた。


『赤い傘を探してください。』


『できれば、今日中にお願いします。』


「…………」


「…………」


 俺たちは、しばらく無言で画面を見つめた。


 先に口を開いたのは朝比奈だった。


「……傘?」


「ああ」


「赤い?」


「ああ」


「探してほしいんだって」


「そう書いてあるな」


 そして彼女は、勢いよく俺を振り返った。


「事件だよ、葛城くん!」


「ただの落とし物だろ!」


     ◇ ◇ ◇


 結局、俺たちは赤い傘を探すことになった。


 理由は簡単だ。


 朝比奈が帰ろうとしなかったからである。


「だって困ってる人がいるかもしれないじゃん!」


「誰が頼んだのかも分からないだろ」


「だから探すんだよ!」


「理屈が逆じゃないか?」


「細かいことはいいの!」


 そんなわけで、俺たちは旧校舎を出て、学校中の傘立てを調べ始めた。


 昇降口。


 職員室前。


 体育館。


 図書室。


 赤い傘なんて珍しくない。


 実際、昇降口の傘立てには三本もあった。


「これかな?」


「違うんじゃないか」


「じゃあこれ?」


「全部持っていく気か、お前」


 朝比奈は三本の傘を見比べ、真剣な顔で唸った。


「うーん……どれも普通だね」


「普通の傘だからな」


「もっとこう、運命的な特徴とかないのかな」


「傘に何を求めてるんだ」


 結局、持ち主の分からない赤い傘は一本だけだった。


 古い折りたたみ傘。


 赤というより、少し色の褪《あ》せた朱色。


 持ち手には、小さな白い花のシールが貼られている。


「あ、これ可愛い」


 朝比奈が傘を開きかけた。


「校内で開くなよ」


「分かってるって」


 彼女は傘を閉じ直し、持ち手のシールを見つめた。


「……これ、どこかで見たことあるような」


「知り合いのか?」


「ううん。そうじゃなくて……」


 朝比奈はしばらく考えたあと、急に顔を上げた。


「あっ!」


「今度は何だ」


「新聞部の先輩が、昔の学校新聞を整理してたときに見せてくれた写真!」


「写真?」


「うん。文化祭の写真だったと思う。傘にこういうシールを貼ってる女の子がいたの!」


「……よく覚えてるな、そんなの」


「新聞部員ですから!」


 朝比奈は得意げに胸を張った。


 普段はどうしようもなく騒がしいが、こういう記憶力だけは妙にいい。


 俺たちは新聞部の部室へ向かった。


 古い学校新聞は、部室の棚に年度別で保管されていた。


 朝比奈は慣れた手つきでファイルを取り出し、ページをめくる。


「あった!」


 そこには、数年前の文化祭を撮影した小さな写真が載っていた。


 模擬店の前で笑う三人の女子生徒。


 そのうち一人が、赤い傘を持っている。


 持ち手には白い花のシール。


「これだ」


 俺が言うと、朝比奈は嬉しそうに頷《うなず》いた。


「でしょ!」


 写真の下には、三人の名前が記されていた。


 その一人は、今年の春に卒業した生徒だった。


 新聞部に残っていた連絡先を使い、朝比奈が卒業生へ連絡する。


 幸い、近くに住んでいるらしい。


 しばらくして、折り返しのメールが届いた。


『その傘、まだあったんですか?』


 俺たちは顔を見合わせた。


     ◇ ◇ ◇


 午後五時を少し回った頃。


 俺たちは学校の正門で、傘の持ち主だった卒業生と会った。


 大学一年生だという女性は、少し驚いた様子で赤い傘を受け取った。


「懐かしいなあ、これ」


「やっぱり先輩のものだったんですね!」


 朝比奈が笑う。


「うん。高校の頃、友達にもらったの」


 女性は持ち手の白い花を指でなぞった。


「これね、私が貼ったんじゃないんだ」


「そうなんですか?」


「うん。友達が貼ってくれたの。三人でお揃いにしようって」


 彼女は、少しだけ寂しそうに笑った。


「でも結局、卒業する頃にはみんな別々になっちゃって」


 俺たちは黙って話を聞いた。


「その子、最後に喧嘩したままなんだよね。メールもしづらくて……」


 女性は傘を見つめる。


「なんか、今さらって感じもするし」


 朝比奈が口を開いた。


「でも、連絡してみたらいいんじゃないですか?」


「え?」


「だって、その傘、ずっと残ってたんですよ」


「……うん」


「だったら、今からでも遅くないと思います」


 女性は少し驚いた顔をして、それから小さく笑った。


「そうかもね」


 そう言って、傘を大事そうに抱えた。


「ありがとう。わざわざ探してくれて」


「いえいえ!」


 朝比奈は元気よく手を振った。


 女性が去っていくのを見送りながら、俺はふと呟いた。


「……結局、普通の落とし物だったな」


「いいじゃん」


 朝比奈は満足そうだった。


「ちゃんと持ち主に返せたんだし」


「まあ、それはそうだけど」


「それに、もしかしたら友達とも仲直りできるかもしれないし」


「そこまでは分からないだろ」


「分からないから、いいんじゃない?」


 朝比奈は夕焼けの空を見上げた。


「これからどうなるか、楽しみだし」


 俺は少しだけ、その横顔を見た。


 別に、何か特別なことを言われたわけじゃない。


 ただ、なんとなく。


 その言葉が妙に耳に残った。


     ◇ ◇ ◇


「さて!」


 朝比奈が勢いよく振り返る。


「報告に行こう!」


「どこへ?」


「パソコン!」


「……ああ、そうだったな」


 すっかり忘れていた。


 そもそも今日の騒動は、あの怪しいファイルから始まったのだ。


 旧校舎に戻る頃には、太陽がかなり低くなっていた。


 三階の廊下は、オレンジ色の光で満たされている。


 第二情報処理室の扉を開けると、パソコンはまだ起動していた。


「あれ?」


 朝比奈が首をかしげる。


「なんか画面、変わってない?」


 見ると、先ほどのテキストファイルは閉じられていた。


 代わりに、例のYUYAKE MAIL SYSTEMが表示されている。


 受信一覧には、さっきまでなかった文字があった。


『REQUEST_001 COMPLETE』


「……コンプリート?」


 俺が呟くと、朝比奈が身を乗り出した。


「完了ってことだよね!」


「ああ」


「すごい! ちゃんと分かるんだ!」


「いや、待て」


 俺は画面を凝視した。


 俺たちは、パソコンに何も報告していない。


 傘を見つけたことも。


 持ち主に届けたことも。


 誰にも入力していない。


 それなのに。


 どうして、このパソコンは依頼が終わったことを知っている?


「……朝比奈」


「ん?」


「お前、何か操作したか?」


「してないよ?」


「本当に?」


「うん。ずっと一緒にいたじゃん」


 そうだった。


 朝比奈は俺と一緒にいた。


 誰かがこの部屋に入った可能性もあるが、そんな気配はなかった。


 俺はもう一度、画面を見る。


 すると。


 ぴこん。


 小さな電子音が鳴った。


『新しいメッセージを受信しました』


「おっ!」


 朝比奈の目が輝く。


「次の依頼!?」


「ちょっと待て。今度は慎重に――」


「開こう!」


「だから人の話を聞けって!」


 朝比奈がマウスをクリックする。


 表示されたのは、短い文章だった。


『ありがとうございました。』


『おかげで、ひとつ約束が守れました。』


 その下には、さらに一行。


『また、お願いします。』


 朝比奈は、しばらく無言で画面を見つめていた。


 そして、にっこり笑った。


「……いいね、これ」


「何が」


「なんかさ。秘密の依頼を受ける探偵みたいじゃない?」


「探偵ってほどのことはしてないだろ」


「じゃあ、便利屋!」


「ますます格好悪くなったぞ」


「うーん……」


 朝比奈は腕を組んで考える。


 それから突然、何かを思いついたように顔を上げた。


「決めた!」


「何を」


「クラブ作ろう!」


「……は?」


「このパソコンを使って、困ってる人を助けるクラブ!」


「いや、待て待て。話が飛びすぎだろ」


「名前は……そうだなあ」


 朝比奈は窓の外を見た。


 校庭が、夕焼け色に染まっている。


 古いパソコンの画面にも、その光が反射していた。


「夕焼け電脳クラブ!」


「……」


「どう?」


「ダサくないか?」


「えーっ!? 格好いいじゃん!」


「いや、電脳って」


「パソコンだから電脳!」


「安直すぎる」


「葛城くん、文句ばっかり!」


 朝比奈は腰に手を当て、俺を睨《にら》んだ。


「じゃあ、ほかにいい名前あるの?」


「……」


 言われて考える。


 夕焼け。


 古いパソコン。


 誰が送ったか分からない依頼。


 そして、今日初めて知った、誰かの小さな約束。


 ……まあ。


 悪くはない、かもしれない。


「……好きにすれば」


「やった!」


「ただし、俺は入らないからな」


「えっ?」


「えっ、じゃない。俺は帰宅部だ」


「じゃあ帰宅部兼電脳クラブで!」


「そんな制度あるか!」


 朝比奈はけらけら笑っていた。


 俺は深いため息をつく。


 まったく。


 どうしてこんな面倒なことになったのだろう。


 ただ十分だけ付き合うつもりだったのに。


 時計を見る。


 午後五時四十二分。


 もう二時間以上も経っていた。


「……帰るぞ、朝比奈」


「はーい!」


 パソコンの電源を落とそうと、マウスを操作する。


 そのとき。


 画面の右下に、小さなウィンドウが開いた。


 見覚えのない、夕焼け色のアイコン。


 そこに、文字が表示される。


『新規クラブ登録を確認しました。』


「……ん?」


 続けて、もう一行。


『夕焼け電脳クラブへようこそ。』


「おおっ!」


 朝比奈が声を上げる。


「パソコンも認めてくれた!」


「いや、なんで名前を知ってるんだよ」


 俺たちは、クラブ名を入力していない。


 そもそも、今さっき決めた名前だ。


 朝比奈は少しも気にしていない様子で笑った。


「すごいね、このパソコン!」


「……すごい、で済ませていいのか?」


 画面にはさらに、小さな文字が現れた。


『案内プログラムを起動します。』


『しばらくお待ちください。』


 画面が一瞬暗くなる。


 そして。


 ブラウン管の中央に、小さな女の子の絵が表示された。


 青みがかった髪。


 白い制服。


 どこか眠そうな目。


 昔のゲームに出てきそうな、粗いドット絵の女の子だった。


『はじめまして。』


 スピーカーから、少し機械的な女の子の声が流れる。


『案内プログラム、ミナセです。』


 朝比奈が、ぽかんと口を開けた。


「……喋った」


「……喋ったな」


『夕焼け電脳クラブの活動開始を確認しました。』


 女の子の絵が、ぺこりと頭を下げる。


『これからよろしくお願いします。』


 俺は画面を見つめた。


 朝比奈も見つめていた。


 そして数秒後。


「か……」


 朝比奈が震える声で呟いた。


「かわいいいいっ!」


「そっちかよ!」


 夕暮れの旧パソコン室に、俺の声が響いた。


 画面の中の少女は、少しだけ首をかしげる。


『音量が大きすぎます。静かにしてください。』


 ……ずいぶん生意気な案内プログラムだった。


 こうして。


 俺たちの、少し変わった放課後が始まった。


 このときの俺は、まだ知らなかった。


 あのパソコンに届くファイルが、どこから送られてくるのか。


 誰が、何のために俺たちへ頼みごとをしているのか。


 そして何より。


 この夏の出来事を、いつか懐かしく思い出す日が来ることを。


 そんなこと、考えもしなかった。


 だって俺たちは、まだ十七歳だったのだから。


     ◇ ◇ ◇


 その夜。


 部屋の電気を消し、布団に入った俺は、またあの夢を見た。


 夕焼けに染まった廊下。


 誰かが走る音。


 開きっぱなしのパソコン室。


 そして、女の子の声。


『ねえ、葛城くん』


 今度は、少しだけ声がはっきり聞こえた。


『今日、楽しかったね』


 俺は返事をしようとした。


 けれど、声が出なかった。


 女の子は笑っていた。


 なぜか、その顔だけが見えない。


 そして、遠くで何かの電子音が鳴った。


 ぴこん。


 聞き覚えのある、メールの受信音。


 その瞬間、夢は途切れた。


 目を覚ます。


 暗い天井。


 窓の外では、夏の虫が鳴いていた。


「……なんなんだよ、これ」


 俺は寝返りを打った。


 枕元の携帯電話を見る。


 午前二時十七分。


 新着メールは、なかった。


 それなのに。


 なぜだか俺は、誰かから返事が届くのを待っていたような気がした。


 理由なんて、分からない。


 ただ、その夜はなかなか眠れなかった。



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