神様は魔法使いではない
神様というものは、どういうわけか物理的に生成できないものは作らない。要するに、物理法則を遵守する。
人間という生命体の詳細を知れば知るほどに、実によくできている。
こんなものが、偶然の産物とは、とても思えないくらいに生命を支えるメカニズムは高度なものだ。
しかし、神様が作ったにしては、腑に落ちないことも多い。
仮に、神様なるものが存在し、その産物として人間や環境があるとしよう。その場合、素朴な疑問が湧く。
地球上の全てのものは、論理的に生成不可能なものはひとつもない。例え、確率が薄いにしても、物理的、あるいは科学的に発生を説明できないものはないということである。
即ち、神様は自然にできないものは作らないということになる。
言い変えれば、神様は魔法使いではないのだ。
逆に考えれば、神様が作ったものを検証して、辻褄の合うように論理立てしたのが物理学とも考えられないこともないが、少なくとも、神様は一定の法則を遵守しているのは間違えない。
地球という惑星を生み出すのに、無数の工程を踏んで、100億年以上の時間をかけている。わざわざ、1000億個もの恒星を生み出し、100億年の時をかけて、生命が誕生できるだけの環境を作ったのだ。
そのような環境が、宇宙に幾つあるかは知らないが、知的生命を宿す惑星の数は、それほど多くはないはずである。要するに、幾つかの生命体を生み出すために、もの凄い数の星を制作し、もの凄い時間をかけているということだ。
そのような環境を実現させた上で、そこに生命たるものを生み出すのに、3億年以上の時間を費やしているわけである。
欠陥だらけの多様な生命体を生み出し、生き残りゲームをさせて、より強く、完成度の高い生命体を生み出すような工程を踏んでいるのだ。
自然の摂理には反しない方針といえば、それまでであるが、神様というものは、実に気長で律儀なものである。
言い変えれば、神様がいるとしても、生命体の進化にはあまり手を出さずに、それを実現するための物理法則だけを設定して、あとは高みの見物という感じである。手を出すにしても、極僅か、少々の肥料を畑にまく程度というところだ。
正直なところ、これだけ手の込んだことをする神様の所業が理解できない。
人間とて、まだまだ、それほど完成度は高くはない。このゲームは、まだまだ続くわけで、随分と膨大な時間を要するゲームである。
もちろん、神様が時間というものに囚われていない可能性も十分にあるが、その存在というのは不確実なものだ。
少なくとも、何百億年という時と、幾兆の生命体を見守る神様であれば、個人の都合などに気に留めるわけがない。
宇宙というものは、物理原理で支配されている。
従って、神様というのは、生命体というより、宇宙原理、そのものと考えた方がしっくりくる。
もしかしたら、物理原理というものは、偶然だけに頼っているものではなく、見えない流れや人の精神により、確率変動するものかもしれない。もしも、そうであるなら、余計、神様との区別はつかないであろう。
お釈迦様が修行して、この世のあり様を探ったことや、古代の人々が神話の世界を築いたのも、いわば、宇宙原理を追求した結果のひとつである。
宇宙原理イコール神様と考えれば、これらを含めてもスッキリと割り切れるように思う。
現在に至っては、科学は発展し、想像したことを検証できるようになった。大昔の神話とは違い、検証することで仮説の精度は上がり、より真理に近づけるシステムが完成したということである。
想像することは、とても素晴らしいことである。想像できなければ、闇の中を探れない。でも、検証することは、もっと重要なのだ。想像が正しいことを検証できれば、確実に、その先に進める。
科学というのは積み木のようなものである。
最初の仮定が間違っていれば、その上に、積み上げたものは、全部崩れてしまう。要するに、確実で強固な土台を作らないと、積み上げられないのだ。
仮説のひとつひとつを検証し、不適合の仮説は捨てていき、最後に残ったものが正しいとする地道な作業である。
神様は魔法使いではない。
もちろん、人間も魔法使いではない。
だから、時間をかけて、一歩一歩進まなくてはならない。
それは、神様も人間も同じ、ということなのだと思う。
もし、この世が仮想世界であるとしたら、支配し得るものは意識とルールしかない。そのルールの本質、すなわち、仮想世界そのものの操作方法まで見出す慧眼を有することができれば、その世界で超越した存在なれるかもしれない。
この宇宙でのルールというのは、物理法則である。
ぼくらが、この物理法則を完全に見切り、全ての現象や存在原理を理解することができれば、この宇宙の中での超越的な存在にもなり得るということなのかもしれない。
そこには、精神の解放、即ち、苦悩からの解放も含まれるのではないだろうか。
夢遥か、神が作りし真理を探り、無限の旅は続く。
祈りとは、神に捧げるものではなく、自らの心を癒す、または、整えるためのものであり、それは、この世のあり様を見定めるための第一歩かもしれない。




