大地に還る祈り
減速の衝撃が収まり、箱舟のメインフレームが無機質な着陸完了のシグナルを鳴らした。
ガイアは逸る胸を抑えながら、メインハッチのコンソールに立った。手には、母星でテラから託された漆黒の球体――『星系儀』が握られている。
未知の惑星、第三惑星。過酷な環境とは聞かされていたが、ここが自分たち人類の新たな、そして永遠の安住の地となるはずだった。
「気密解除。外気を取り込みます」
ハッチの油圧シリンダーが重々しく唸りを上げ、シューという鋭い排気音と共に、新世界の空気が船内へと流れ込んだ。
その刹那――ガイアの喉と肺を、灼熱の針で刺されたような激痛が貫いた。
「がっ……あぁっ……!」
ヘルメットを外していた先遣隊のクルーが、喉を掻きむしりながら床に転げ回る。口からは白い泡が吹き出し、眼球の毛細血管が次々と破裂して赤く染まっていく。
急性酸素中毒。極寒の母星で薄い大気しか吸ったことのない彼らにとって、この星の空気は細胞を焼き尽くす「猛毒のガス」そのものだった。
『警告:大気組成異常。酸素濃度三五パーセントを検知』
『警告:重力加速度異常。基準値の二・六倍を検知』
けたたましい警告音が響く中、ガイアは慌ててバイザーを下げ、重力補正アシストを最大にして外へ踏み出そうとした。
だが、タラップに足を乗せた瞬間、見えない巨人に鉄の塊で踏みつけられたような重圧が全身を襲い、両膝が無様に砕け折れた。
「ぐっ……! なんだ、この星は……!」
ガイアは這いつくばりながら、必死に腕のデータ端末を起動させた。
星系儀が母星の恒星軌道と照合し、現在地の座標をホログラムで空中に弾き出す。
『現在地:太陽系第三惑星』
ガイアが顔を上げたその時、目の前に広がっていたのは――荒涼とした未開の荒野などではなかった。
狂気のような『深緑』の地獄だった。
天を突き破らんばかりに聳え立つ、数十メートルの巨大なシダ植物の密林。
まとわりつくような熱気と、底なしの泥炭地から立ち上る濃厚な胞子の霧。
そしてガイアの頭上を、ヘリコプターのような猛烈な羽音を立てて、翼長一メートルを超える巨大なトンボが悠然と横切っていった。
ここは、未来の未知の惑星などではない。
後に人類が『地球』と呼ぶことになる、青き第三惑星。
――現代から遡ること約三億年。
生命が過剰に溢れかえり、ひ弱な火星人を押し潰すために存在した『古生代石炭紀』の、太古の地球の姿だった。
着陸からわずか数ヶ月で、箱舟の乗組員は半数以下にまで激減していた。
高度なテクノロジーは、この星では何の意味も持たなかった。大気中の酸素濃度が三〇パーセントを超えるこの環境では、少しの静電気やレーザー兵器の火花が大爆発を引き起こす。さらに、まとわりつくような湿度と未知の菌類が、金属の装甲や電子回路をあっという間に腐敗・劣化させていった。
「ガイア……もう、無理だ……」
医療区画のベッドで、かつての同僚が胸をかきむしりながら息を引き取った。
自分の体重を支えきれず心不全を起こす者。スーツの破損から猛毒の空気を吸い込み、肺を腐らせる者。彼らのひ弱な肉体は、この星の環境にはあまりにも適応していなかった。
『あの青き星は、命に満ち溢れた地獄よ。ひ弱な私たちを容赦なく押し潰し、毒の息吹で細胞を腐らせる』
絶望に沈む薄暗い船内で、ガイアは一人、漆黒の球体を見つめていた。
母星に残ったテラの最期の言葉が、呪いのように耳の奥でリフレインする。彼女は、計算し尽くしていたのだ。自分たちがこの星で、これほどの苦しみを味わうことすらも。
『だから、捨てなさい。誇りも、文明も、私たちが築き上げてきた歴史のすべてを』
ガイアは立ち上がり、船内に残された最後の機能、遺伝子操作ポッドの前に立った。
選択肢はなかった。この重力と猛毒の大気に耐えうる強靭な骨格と肺活量、そして分厚い筋肉。それらを得るためには、膨大なエネルギーを肉体へ回さなければならない。代償として切り捨てられるのは――高度な思考を司る「大脳新皮質」だ。
つまり、彼らは生き延びるために、自らの知能を封印し、獣へと『退化』しなければならない。
「テラ長官……。あなたは、これを私にやれと言うのですね」
ガイアの頬を、止めどない涙が伝い落ちた。
高度な科学を愛し、宇宙の真理を探求してきた彼らの誇り高き精神が、言葉を持たない獣へと成り下がる。それは死よりも恐ろしい、究極の自己犠牲だった。
ガイアは生き残った数少ない子供たちをポッドへ導きながら、手元の星系儀を強く握りしめた。
知能が失われれば、文字は読めなくなる。歴史は忘れ去られ、箱舟の存在すらただの石の山へと変わるだろう。だが、いつの日か。この太陽がさらに力を失い、地球がかつての母星のように凍りつく日が来た時、必ずこの箱舟は再び必要になる。
ガイアはポッドのコンソールを叩き、星系儀の起動パスワードを構成する複雑な数式と音響データを、極限までシンプルな「音階」へと変換した。
「子供たちよ。私と一緒に、声に出すんだ」
ガイアは、怯える子供たちを囲み、低く、力強い声でハミングを始めた。
それは、言葉を持たない獣でも歌える、原始的なリズム。
「この歌だけは、忘れてはならない。魂に刻み込み、子へ、孫へ、何万回夜が来ようとも歌い継ぐんだ。いつか、太陽が力を失うその日まで」
彼が紡ぎ出したそのメロディは、泥にまみれた緑の地獄で響く、人類最初の『祈り』となった。
それから幾星霜の時が流れたか、彼にはもう分からなかった。
「言葉」という概念は、すでに彼の脳から抜け落ちていた。
かつてガイアと呼ばれたその雄は、分厚い胸板と強靭な四肢を持ち、素っ裸のまま泥炭地を四足歩行に近い姿勢で駆け抜けていた。巨大なシダ植物の森も、まとわりつくような湿度も、今の彼には心地よい「住処」でしかない。
ふと、木々の隙間から開けた場所に出た。
苔むし、巨大な黒い岩山のように成り果てた箱舟の残骸。その前で、獣の毛皮をまとった彼の群れ(家族)が、赤々と燃える炎を囲んでいた。
彼らは炎に向かい、そして残骸の前に置かれた「漆黒の球体」に向かって、一定のリズムでステップを踏み、低い声でハミングを繰り返している。
かつて自分が教え込んだ、星系儀の起動パスワード。
今の彼には、それが何を意味する音なのか、もう理解できなかった。ただ、そのメロディを聞くと、なぜか胸の奥が締め付けられるように熱くなり、目から水が溢れそうになるのを感じた。
彼は空を見上げた。
木々の隙間から見える太陽は、彼が遠い昔に見ていたものよりも、ほんの少しだけ大きく、力強く燃えているような気がした。
彼は太い腕を振り上げ、大地を震わせるような雄叫びを上げた。
それに呼応するように、群れの祈りの歌がいっそう高く、シダの森の夜空へと響き渡っていく。彼は完全に大地の一部となり、人類の永い永い神話の時代が、幕を開けた。




