第96話 冷たい晩餐
都内の喧騒を離れた、会員制フレンチレストランの個室。 磨き上げられたグラスに注がれた赤ワインが、深紅の輝きを放っている。
「……ねえ、深雪」
前菜の皿を下げに来た給仕が退室すると、久慈真理子は少し声を潜めるように切り出した。 アルコールで口元は緩んでいるが、その瞳には探るような色が宿っている。
「あなた、先週院長室に呼ばれていたわよね? ……何か、私の話とか、出なかった?」
それは、彼女が抱える潜在的な不安の露呈だった。 自身の地位が、目の前の天才的な部下によって脅かされていないか。久慈はそれを確認せずにはいられないのだ。
深雪はグラスを軽く揺らし、表情ひとつ変えずに答えた。
「ええ。今の脳外科の研究成果は素晴らしいと仰っていました。……全ては、久慈先生の指導とマネジメントのおかげだと、伝えておきましたよ」
「……ふふ、そう」
久慈は安堵し、満足げに笑みを深めた。
「まあ、事実だしね。あなたが自由に研究できているのも、私が防波堤になって雑音を処理しているからなんだから」
久慈はワインを一口含み、自身の正当性を再確認するように頷く。 その「防波堤」という言葉で、彼女は直近の不愉快な記憶を思い出したようだった。
「防波堤といえば……この前の申請書の件よ。篠原委員長」
久慈は軽く溜息をつき、カトラリーを置いた。
「相変わらず堅いのよ、あの人。今回も承認印をもらうだけで一苦労だったわ。でもね、不思議なことがあったの」
「不思議なこと、ですか?」
「ええ。申請書の添付資料に、例の『多点センサー』の構造図を入れておいたじゃない? ……彼女、あれを見た瞬間、動きが止まったのよ」
久慈は、その時の篠原の様子を思い出すように首を傾げた。
「何か、急に顔が赤くなったり、呼吸が乱れたりして……。体調でも悪いのかと思ったけれど、それにしては反応が過剰というか。見ていて妙な**『違和感』**があったわ」
久慈には、それが政治的な焦りなのか、体調不良なのか判別がつかなかった。ただ、普段の冷静な委員長とは違う、奇妙な揺らぎを感じただけだ。
「……多点センサーに、反応したのね」
深雪がボソリと呟いた。
「え? 何か言った?」
「いえ、独り言です」
深雪はグラスの縁を指でなぞりながら、冷ややかな光を瞳に宿した。 (……なるほど。構造図という視覚情報だけで、彼女の神経回路は発火した、ということですか)
パブロフの犬のように。 理性がどう否定しようと、脳裏に焼き付いた快楽の配線図を見ただけで、身体が勝手に熱を持ってしまう。
「ま、最終的にはハンコを押してくれたからいいんだけどね。……さ、飲みましょう」
久慈は深雪の思考になど気づかず、機嫌よくグラスを掲げた。
「ええ。乾杯しましょう」
深雪も静かにグラスを掲げる。 冷たいガラスが触れ合う音が、確信を得た合図のように、密室に小さく響いた




