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女医乃深雪の記録ー快楽の追及ー日常侵食編  作者: 女医乃深雪


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第97話 蝕まれる完璧

「……篠原君?」

 院長の穏やかな、しかし怪訝そうな声が、重厚な執務室に響いた。  篠原美沙子はハッとして顔を上げた。

「は、はい」 「ここの集計、数字が合わないようだが。……君にしては珍しいね」

 院長が指差したのは、篠原が作成した倫理委員会の月次報告書だった。  彼女のような完璧主義者が、決して犯さないはずの初歩的なミス。

「申し訳ありません! 直ちに訂正いたします」 「いや、大事ではないからいいよ。……少し、疲れているのかね?」


 院長の気遣わしげな視線が、今の篠原には居心地が悪かった。  彼女は深々と頭を下げ、逃げるように院長室を後にした。

 廊下に出た瞬間、篠原は眉間を指で押さえ、小さく息を吐いた。

(……まずいわね。こんな単純なミスをするなんて)

 動悸がするわけではない。頭痛もない。  ただ、ふとした瞬間に**「集中力が散漫になる」**のだ。  書類の文字を追っていると、時折、脳裏にノイズが走る。先日見た「多点センサー」のグリッド線がフラッシュバックし、思考のピントが一瞬だけズレるような感覚。


(内科的な疲れ? ……いいえ、違う)


 これは脳神経系のエラーだ。  放置すれば、倫理委員長の座はおろか、医師としての業務にも支障をきたす。  誰かに相談すべきだが、うかつに弱みを見せるわけにはいかない。特に、あの女医乃深雪には絶対知られてはならない。


(……久慈先生なら)


 脳神経外科の助教授。野心家ではあるが、医師としての腕は確かだし、口も堅い。  立場上も自分より下であり、秘密裏の相談相手としては適任だ。  篠原は意を決し、PHSを取り出した。


『はい、脳外科の久慈です』 「……お疲れ様です、篠原です」


     ***


 夕闇が迫る大学病院。  外来の喧騒はとうに去り、脳神経外科の診察ブースが並ぶ廊下は、無機質な静寂に包まれていた。


 篠原は、ある診察室の前で足を止めた。  プレートには『久慈 真理子 准教授』の文字。  彼女は一度だけ深呼吸をし、乱れのない白衣の襟元を正すと、短くノックをした。


「――どうぞ」 「失礼するわ、久慈先生」


 入室した瞬間、デスクに向かっていた久慈真理子がすぐに立ち上がり、恭しく頭を下げた。


「お疲れ様です、委員長。お待ちしておりました」 「急な相談ですまないわね。外来はもう終わったのかしら?」 「ええ。最後のアポイントメントは30分前に終了しました。今は完全にフリーです。どうぞ、こちらへ」


 久慈は慣れた手つきで、患者用の丸椅子ではなく、相談用の背もたれ付きの椅子を勧めた。あくまで「上司」への敬意を払った対応だ。  篠原は小さく頷き、勧められた椅子に腰を下ろした。


「それで……お電話でも仰っていましたが、集中力の低下、ですか?」


 久慈はデスクに戻り、電子カルテの新規画面を開きながら向き直った。  その表情は、部下としての愛想と、専門医としての理知的な瞳が同居している。


「ええ。ここ数日ね」

 篠原は膝の上で手を組み、努めて事務的に話し始めた。

「書類を読んでいると、文字が滑るような感覚があるの。視界の端にノイズが走るというか……思考が一瞬、寸断されるような」 「ふむ……。頭痛や、吐き気は?」 「ないわ。めまいも、手足のしびれも自覚症状はない。ただ、不意に『意識の空白』ができる」

 嘘ではない。だが、真実でもない。  その「空白」の瞬間に、脳内物質が暴走し、下腹部が熱くなっていることは伏せている。

「睡眠時間は取れていますか?」 「平均して5時間といったところかしら。……まあ、この立場なら普通でしょう?」 「少し足りない気もしますが、委員長のタフさは存じ上げていますからね」

 久慈は少し苦笑し、モニターから視線を外して篠原を真っ直ぐに見た。

「ストレス性の集中力低下、あるいは眼精疲労の可能性が高いとは思います。ですが、委員長のご年齢と激務を考慮すれば、一過性の脳虚血(TIA)の前兆という線も捨てきれません」 「……そうね。私もそれを懸念して、あなたを頼ったの」

 篠原はもっともらしい理由を肯定した。「脳の病気を疑う用心深い医師」という仮面を被ることで、自分がここに来た本当の理由――「自分の体が異常な反応をしている恐怖」を隠すために。

「分かりました。まずは器質的(物理的)な異常がないか、はっきりさせましょう。MRIの予約枠、緊急で空けておきましたから」 「手回しがいいわね。助かるわ」 「当然です。……では、先に画像を撮ってしまいましょうか。準備ができ次第、すぐに撮影に入ります」

 久慈は立ち上がり、診察室の奥にある更衣スペースのカーテンを開けた。

「検査着を用意してあります。そちらに着替えていただけますか? 金属類はすべて外してください」 「……ええ。分かったわ」

 篠原は立ち上がり、カーテンの向こうへと足を踏み入れた。  狭い更衣スペース。そこには、洗濯されたばかりの清潔な、しかし無個性な検査着が畳まれている。

(……嫌な匂いね)

 消毒液と柔軟剤の混じった病院特有の匂い。篠原は白衣のボタンを外しながら、不快感に眉をひそめた。この匂いを嗅ぐと、どうしても思い出してしまう。深雪の研究室で無理やり着せられた患者着の感触を。

(やめなさい。これはただの検査よ。……あの場所とは違う)

 篠原は首を振り、ブラウスを脱ぎ捨てた。  下着のホックを外し、ストッキングを下ろす。露わになった肌に、空調の風が触れる。ただそれだけの刺激に、乳首がキュッと硬くなるのを感じて、彼女は舌打ちをした。

(……過敏すぎる。早く終わらせないと)

 彼女は急かされるように検査着に袖を通し、帯をきつく結んだ。委員長としての鎧を脱ぎ、一人の無力な「患者」へと姿を変える瞬間だった。

「……着替えたわ」

 カーテンを開け、篠原が姿を現す。  薄手の検査着は、彼女の身体のラインを完全には隠しきれていない。豊かな胸の膨らみや、帯で強調された腰のくびれが、動くたびに布越しに浮かび上がる。

「あら……」

 久慈が電子カルテから顔を上げ、少し目を見張った。その視線が、篠原の胸元から腰へと、ねっとりと舐めるように動く。

「相変わらず、スタイルがおよろしいですね、委員長。その年齢でそのプロポーションを維持されているのは、さすがです」

 そこには他意はない。同性としての純粋な羨望と、少しの揶揄が含まれているだけだ。だが、今の篠原にとって、肉体を評価される言葉は、深雪の冷徹な観察眼を連想させる鋭利な刃物だった。


「……からかわないで。ただの体質よ」 「失礼しました。でも、本当に羨ましい限りです」


 久慈は軽く肩をすくめると、検査室へのドアを開けた。

「では、MRI室へ。第2検査室を貸し切りにしてあります」

 二人は無人の廊下を歩き、重厚な磁気シールドの扉の前へと辿り着く。『検査中』のランプが点灯し、ブーンという低い駆動音が漏れ聞こえてくる。


「どうぞ。台に仰向けになってください」


 指示に従い、篠原は硬い検査台の上に身を横たえた。頭部が固定用の枠(コイル)に収められ、視界が狭まる。

「少し大きな音がしますが、動かないでくださいね。15分ほどで終わります」

 久慈の声がインターホン越しに聞こえる。  ガガガ、と台がスライドし、篠原の身体が狭い円筒形のトンネルへと飲み込まれていく。  閉塞感。そして、逃げ場のない拘束感。

(……大丈夫。これは医療行為。私は検査を受けているだけ)

 篠原は目を閉じ、規則的な機械音(シーケンス音)に身を委ねた。  カン、カン、カン、と響く磁場の音が、まるで自分の中にある「何か」を暴き出そうとするノックのように聞こえ、彼女は検査着の裾を強く握りしめた。

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