↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
女医乃深雪の記録ー快楽の追及ー日常侵食編  作者: 女医乃深雪


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

97/147

第94話 到着した枷

重厚な防音扉が閉ざされた研究室に、静謐な電子音が響く。 搬入業者たちが去った後、そこには独特の緊張感と、真新しい機材の匂いが立ち込めていた。

「素晴らしいわ。さすがは最新モデルね」

久慈真理子は、設置されたばかりのメインユニットを満足げに見上げた。 彼女は白衣の腕を組み、あくまで「この研究室の長」としての威厳を保ちながらも、その声には隠しきれない高揚感が滲んでいた。


「『術中モニタリングシステム・Ver.X』。このスペックを導入できているのは、国内でも指折りの脳外科だけよ。これで私たちの臨床データは、より完璧なものになる」

久慈が見ているのは、医学的な権威と、より高度な手術の成功率だ。 彼女は、この機械がもたらすであろう「安全で確実な神経温存」という成果を疑っていない。

「ええ、その通りです、久慈先生」

女医乃深雪は、傍らのデスクに置かれたもう一つのデバイス――『神経探索用スティミュレーター』のケースを開いた。 緩衝材の中に収められていたのは、銀色のペン型プローブ。 先端は極細の電極となっており、そこから発せられる不可視のパルスが、肉眼では判別できない神経の束を探り当てる。

深雪はそのプローブを手に取ると、指先で愛おしそうになぞった。

「従来機ではノイズとして処理されていた微弱な反応も、これなら拾えます。……医学がまだ定義しきれていない、脳の深淵なる領域さえも」

「ふふ、深雪先生らしい言い回しね。でも、確かにその通りよ」

久慈は深雪の言葉を、あくまで「研究熱心な部下の比喩」として受け取った。


「迷入した神経や、奇形による走行異常。そういった『見えないリスク』を可視化するのが、この子の役目だからね」


「はい。『見えないもの』を暴き、数値化する。……科学者として、これほど唆(そそ)られる道具はありません」

深雪の瞳が、冷徹な光を帯びる。 彼女にとってこのプローブは、単なる手術道具ではない。 痛み、恐怖、そして――これまで客観的な計測が困難だった『快楽』という名の電気信号。それらを混線させることなく、純粋なデータとして抽出するための「鍵」だ。

「電源を入れましょう」

久慈がメインスイッチを押す。 低い駆動音と共に、複数の冷却ファンが回転を始めた。高精細モニターが瞬き、メーカーのロゴを経て、漆黒の背景に鮮やかなグリッド線が表示される。

画面を走る波形はまだない。 完全なるフラット(無反応)。 それは、これから書き込まれる膨大な真実を待つ、白紙のキャンバスのようだった。

「システムオールグリーン。初期動作、問題ありません」

深雪がモニターの数値を読み上げる。 その声は事務的だが、手にしたプローブを握る指には、確かな力が込められていた。準備は整った。あとは、この鋭敏なセンサーが、実際の人間の神経に対してどれほどの解像度を発揮するかを確認するだけだ。


無機質な電子音が支配する実験室を後にし、二人は奥の応接室へと場所を移していた。 挽きたてのコーヒーの香りが、張り詰めていた空気を少しだけ和らげる。


「……ふぅ。ようやく一息ついたわね」


久慈真理子はソファに深く身を沈め、カップを手に取った。 立ち昇る湯気の向こうで、彼女は満足げな溜息をつく。先ほどの搬入作業で見せていた指揮官としての顔から、少しだけ肩の力が抜けている。

「お疲れ様でした、久慈先生。素晴らしい手際でした」

対面に座った女医乃深雪が、労うように微笑んだ。 久慈はその言葉に機嫌を良くし、カップの縁で口元を隠すようにして笑う。

「当然よ。あの程度の機材導入、私の権限なら造作もないわ」 「ええ。おかげで、私の研究も次の段階へ進めます」

深雪はブラックのコーヒーを一口含み、世間話でもするように切り出した。

「そういえば、助教授に昇格されてからも、院内での評判は上々のようですね。難易度の高いオペの成功率も上がっていますし、次期教授の座も固いのでは?」


その言葉は、久慈の自尊心を心地よく刺激した。 だが同時に、彼女の瞳に一瞬の翳(かげ)りを生ませる。


「まあね……。周囲は好き勝手言っているけど、実績は嘘をつかないわ」


久慈はカップをソーサーに置くと、少し身を乗り出すようにして深雪を見つめた。その視線には、傲慢さと同居する、縋(すが)るような不安が見え隠れする。

「でも、分かっているのよ。あなたの存在が大きいの。……私の執刀する難しい症例、裏でサポートしてくれているのは深雪、あなただもの」 「買い被りですよ。私はただ、助手の役割を果たしているだけです」 「謙遜しないで。……ねえ、深雪」

久慈の声のトーンが落ちる。

「まさか、他の大学病院や研究機関から、引き抜きなんて来ていないわよね? あなたほどの腕と論文の実績なら、どこでも欲しがるでしょうけど」

それが本音だった。 久慈真理子という医師の輝かしいキャリアは、いまや女医乃深雪という天才の支えなしには成立しない。その依存関係を、久慈自身も薄々自覚しているのだ。

深雪は、不安げな久慈の瞳を真っ直ぐに見つめ返し、安心させるように目を細めた。

「まさか。私はここが気に入っていますよ」 「本当?」 「ええ。久慈先生には、私の『個人的な研究』にも色々と協力していただいていますし……何より、あのような高価な最新鋭機器を、私の希望通りに揃えてくださる。こんなに恵まれた環境、他にはありません」

深雪の言葉は嘘ではない。 ただし、その意味するところは「優秀な上司への感謝」ではなく、「都合の良いパトロンへの評価」だった。

「ふふ、そう。それなら良かったわ」

久慈は安堵し、再び余裕のある笑みを取り戻した。

「この機材も、あなたの役に立つなら安いものよ。私の右腕として、存分に使いこなしなさい」 「ありがとうございます。……では、そのお言葉に甘えて」


深雪はカップを置き、白衣のポケットから先ほどの「スティミュレーター(ペン型プローブ)」を取り出した。 テーブルの上に置かれたその銀色のデバイスは、応接室の柔らかな照明の下で、異質な冷たさを放っている。

「先ほどの動作確認の続きですが……やはり、生体でのレスポンスを確認しておきたいのです。臨床に使う前に、信頼できるデータで基準値(リファレンス)を取っておきたい」

深雪は試すように久慈を見た。

「ですが、他人の身体ではデータの信頼性に欠ける。……久慈先生、お願いできますか? あなたの身体なら、神経の走行も、感度の『癖』も、私が一番熟知していますから」

それは、信頼という名の甘い罠だった。 自分を一番理解してくれているという言葉に、久慈は断る理由を持たなかった。

「……仕方ないわね」

久慈はカップを置いたが、すぐに立ち上がろうとはせず、少し躊躇うように視線を彷徨わせた。

「でも、ここでやるの? 正規の検査室じゃなくて……」 「ノイズの少ない環境で、純粋な神経伝達速度だけを測りたいのです。検査室の機材に囲まれた状態では、余計な電磁干渉(アーティファクト)が入る可能性がありますから」

深雪はもっともらしい理屈を並べ、プローブの先端をハンカチで丁寧に拭った。


「それに、衣服の上から特定の神経根(ルート)を探り当てる精度テストです。肌を露出する必要はありません。……あくまで、このスティミュレーターの『透視能力』を確認するだけですから」

「……そう。あくまで、性能検査(スペックテスト)なのよね?」 「ええ、勿論です。メーカー公称値の『深度5cmまでの正確な捕捉』が本当かどうか。久慈先生の体なら、私が解剖学的構造を完璧に把握していますから、誤差があればすぐに分かります」

医学的な正当性を突きつけられ、久慈は逃げ道を塞がれた。 彼女は小さく息を吐き、自分に言い聞かせるように頷く。

「分かったわ。あなたがそこまで言うなら、協力するわ」

久慈はゆっくりとソファから立ち上がると、少し緊張した面持ちで背筋を伸ばした。


「でも、手短にお願いね。……ここ、鍵もかけてないんだから」 「善処します。では、少し後ろを向いていただけますか? 脊髄神経後枝からアプローチします」


深雪がプローブを手に、久慈の背後へと回る。 「性能検査」という免罪符を得て、久慈は抵抗するのを止め、その身を深雪の実験に委ねた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。