第93話 排除された病名
一夜明け、篠原美沙子はいつもの冷静な委員長としてデスクに向かっていた。 昨晩の取り乱した姿は、もうどこにもない。 完璧なメイク、乱れのない白衣。決裁書類を捌く手つきもスムーズだ。
ただ、時折。
――ズキン。
不意に、脳の奥を小さな棘で刺されたような感覚が走る。 思考が一瞬だけ途切れ、下腹部に重たい違和感が過る。 だが、それは数秒で消える。
(……また、今の)
篠原はペンを止め、眉間を揉んだ。 常にではない。仕事に集中していれば忘れられる程度だ。 けれど、ふとした拍子に――例えばエアコンの風がうなじに触れたり、遠くで金属音がしたりすると、その「ノイズ」は警告音のように明滅する。
(更年期……にしては早いわね。自律神経の乱れかしら)
昨夜の失態も、この体調不良が原因だと思えば辻褄が合う。 原因さえ分かれば、薬で散らせる。 篠原はあくまで事務的な判断として、内科の受診を決めた。
***
「――検査結果ですが、委員長」
内科部長の佐伯は、モニターの数値を指し示しながら、首をかしげた。
「……何も、出ませんね」 「何も? 炎症反応は? ホルモンバランスの乱れは?」 「ええ。すべて基準値のど真ん中です。甲状腺、血糖値、女性ホルモンの値に至るまで、驚くほど安定しています」
篠原は、モニターに並ぶ「正常」の文字を見つめた。 そこには、彼女が期待した「病名」の居場所はなかった。
「むしろ、以前の検診時より血流や代謝は良いくらいです。……正直、内科的なアプローチでは、治療の必要がありません」
佐伯の言葉は、医学的には最高の診断だ。 だが、篠原にとっては、逃げ道を塞がれる宣告に等しかった。
「……そう。なら、いいの」
篠原は短く礼を言い、診察室を後にした。 廊下を歩く。 コツ、コツ、とヒールの音が響く。
――ズキン。
また、脳が疼いた。 数値は正常。体は健康的。 だとしたら、この時折走る「疼き」は、身体の故障ではない。 彼女の脳が、正常な機能として**「あの刺激(多点センサー)」を必要栄養素として要求し始めた**――ただそれだけの生理現象だということになる。
(病気じゃないなら……私は、何なのよ)
篠原は小さく息を吐き、その違和感を無理やり飲み込むと、再び無表情の仮面を被って歩き出した。




