↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
女医乃深雪の記録ー快楽の追及ー日常侵食編  作者: 女医乃深雪


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

95/147

第92話:逸脱の夜

帰路につく送迎車の後部座席で、篠原美沙子は微かに眉を寄せていた。  普段なら快適なはずの高級セダン。だが今夜は、その革張りのシートが落ち着かない。


 ――ガタン。


 車が路面の継ぎ目を越える。  極めて小さな振動。しかし、それが背もたれから腰、そして太ももへと伝わると、篠原の身体は過剰なほど敏感にそれを拾い上げた。

(……やけに響くわね)

 昼間、久慈に見せられた「あの写真」のせいだ。  視覚情報として脳に入り込んだセンサーの記憶が、皮膚感覚を勝手に書き換えている。  篠原は足を固く閉じ、逃げるように窓の外の夜景に目を逸らした。

     ***

 帰宅し、熱めのシャワーで身体の強張りを洗い流す。  バスローブを羽織り、リビングのソファに深く身を沈めると、ようやく人心地がついた気がした。  サイドテーブルには、琥珀色のブランデーを入れたグラス。  そして膝の上には、今日持ち帰った書類の束があった。

 仕事だ。いつも通りの、委員長としてのルーティン。  そう自分に言い聞かせながら、決裁済みの書類をパラパラと確認していく。  その一番下に、異質な厚みのファイルがあった。


『高密度多点センサー 臨床症例集』


 久慈から無理やり渡されたものだ。  理性の奥で、小さな警鐘が鳴る。「見るな」と。  こんなもの、明日の朝一番でシュレッダーにかければいい。  だか、アルコールのせいだろうか。篠原の手は、その警告を無視して表紙を開いていた。

 現れたのは、無機質な医療レポートだ。  『歩行障害における神経伝達の再構築』『脊髄損傷後の感覚フィードバック』。  並んでいるのは、あくまで一般医療における、正当で学術的な症例ばかり。

(……ええ、そうよ。これはただの医療機器)

 写真を見る。  患者の腰や太ももに貼られた、黒く光る電極パッド。  複雑な配線。モニターに表示された波形データ。  本来なら、失われた機能を回復させるための、希望の技術だ。


 けれど。


(私はこれを……あろうことか……)


 文字を追う目が、勝手に「別の意味」を読み解いていく。  ここに書かれている「神経伝達の再構築」を、深雪は「快楽神経の暴走」へと書き換えた。  「感覚フィードバック」は、「終わらない絶頂のループ」へと悪用された。

 真っ当な医療機器が、悪魔的な手管によって、人を人ならざる獣へと変える道具に成り下がる。  そして自分は、それを拒絶するどころか、無防備な下半身を晒し、喜んで受け入れてしまったのだ。


「……っ」


 不意に、背筋を冷たいものが走り抜けた。  脳が理解するより早く、脊髄が反応する。  写真の中の電極の位置を目でなぞった瞬間、篠原自身の内太もも――かつて電極が貼られていたその場所が、記憶に呼応してブルリ、と大きく震えた。

 幻の電流。  ないはずの刺激。  けれど、バスローブの下の素肌は、あたかも今まさにスイッチを入れられたかのように、熱く、切ない収縮を始めていた。


「……嘘でしょ」


 篠原は唇を噛み、ファイルを閉じようとした。  だが、指先が強張って動かない。  恐怖と、羞恥と、そして認めたくないほどの強い期待が、彼女をその場に縛り付けていた。


……翌朝。  カーテンの隙間から差し込む容赦のない朝日が、乱れたベッドを照らし出した。

 篠原は気だるげに目を開け、自分の右手を見つめた。  結局、昨夜は眠れなかった。  リビングでの発情を持て余し、ベッドの中で、自身の指を使って慰めようと試みたのだ。

 だが、結果は惨敗だった。  かつては機能したはずの、慣れ親しんだ指先の刺激。  しかし、覚醒してしまった脳内の「報酬系」は、そんな単調なアナログ信号にはピクリとも反応しなかった。


(……足りない)


 指では、あの深さと、あの複雑さが再現できない。  脳が求めているのは、粘膜のひだ一つ一つを計算通りに震わせる、あの「多点センサー」の冷徹で完璧なアルゴリズムだ。

 指を動かせば動かすほど、脳の奥で警報が鳴り響いた。  『入力エラー。要求された信号と一致しません』  そんなシステムエラーのような渇きだけが募り、虚しく終わった。

 篠原は重い体を起こし、こめかみを押さえた。  満たされなかった神経が、まだジリジリと焦げ付いている。


「……また、聞こえる」


 彼女は小さく呟いた。  耳鳴りではない。  それは、彼女の理性的な思考を邪魔するように、脳の深淵から湧き上がってくる、あの忌まわしいノイズ。  


 そのノイズは、病院へ向かう準備を始めてもなお、頭の片隅で粘り強く鳴り止まなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。