第92話:逸脱の夜
帰路につく送迎車の後部座席で、篠原美沙子は微かに眉を寄せていた。 普段なら快適なはずの高級セダン。だが今夜は、その革張りのシートが落ち着かない。
――ガタン。
車が路面の継ぎ目を越える。 極めて小さな振動。しかし、それが背もたれから腰、そして太ももへと伝わると、篠原の身体は過剰なほど敏感にそれを拾い上げた。
(……やけに響くわね)
昼間、久慈に見せられた「あの写真」のせいだ。 視覚情報として脳に入り込んだセンサーの記憶が、皮膚感覚を勝手に書き換えている。 篠原は足を固く閉じ、逃げるように窓の外の夜景に目を逸らした。
***
帰宅し、熱めのシャワーで身体の強張りを洗い流す。 バスローブを羽織り、リビングのソファに深く身を沈めると、ようやく人心地がついた気がした。 サイドテーブルには、琥珀色のブランデーを入れたグラス。 そして膝の上には、今日持ち帰った書類の束があった。
仕事だ。いつも通りの、委員長としてのルーティン。 そう自分に言い聞かせながら、決裁済みの書類をパラパラと確認していく。 その一番下に、異質な厚みのファイルがあった。
『高密度多点センサー 臨床症例集』
久慈から無理やり渡されたものだ。 理性の奥で、小さな警鐘が鳴る。「見るな」と。 こんなもの、明日の朝一番でシュレッダーにかければいい。 だか、アルコールのせいだろうか。篠原の手は、その警告を無視して表紙を開いていた。
現れたのは、無機質な医療レポートだ。 『歩行障害における神経伝達の再構築』『脊髄損傷後の感覚フィードバック』。 並んでいるのは、あくまで一般医療における、正当で学術的な症例ばかり。
(……ええ、そうよ。これはただの医療機器)
写真を見る。 患者の腰や太ももに貼られた、黒く光る電極パッド。 複雑な配線。モニターに表示された波形データ。 本来なら、失われた機能を回復させるための、希望の技術だ。
けれど。
(私はこれを……あろうことか……)
文字を追う目が、勝手に「別の意味」を読み解いていく。 ここに書かれている「神経伝達の再構築」を、深雪は「快楽神経の暴走」へと書き換えた。 「感覚フィードバック」は、「終わらない絶頂のループ」へと悪用された。
真っ当な医療機器が、悪魔的な手管によって、人を人ならざる獣へと変える道具に成り下がる。 そして自分は、それを拒絶するどころか、無防備な下半身を晒し、喜んで受け入れてしまったのだ。
「……っ」
不意に、背筋を冷たいものが走り抜けた。 脳が理解するより早く、脊髄が反応する。 写真の中の電極の位置を目でなぞった瞬間、篠原自身の内太もも――かつて電極が貼られていたその場所が、記憶に呼応してブルリ、と大きく震えた。
幻の電流。 ないはずの刺激。 けれど、バスローブの下の素肌は、あたかも今まさにスイッチを入れられたかのように、熱く、切ない収縮を始めていた。
「……嘘でしょ」
篠原は唇を噛み、ファイルを閉じようとした。 だが、指先が強張って動かない。 恐怖と、羞恥と、そして認めたくないほどの強い期待が、彼女をその場に縛り付けていた。
……翌朝。 カーテンの隙間から差し込む容赦のない朝日が、乱れたベッドを照らし出した。
篠原は気だるげに目を開け、自分の右手を見つめた。 結局、昨夜は眠れなかった。 リビングでの発情を持て余し、ベッドの中で、自身の指を使って慰めようと試みたのだ。
だが、結果は惨敗だった。 かつては機能したはずの、慣れ親しんだ指先の刺激。 しかし、覚醒してしまった脳内の「報酬系」は、そんな単調なアナログ信号にはピクリとも反応しなかった。
(……足りない)
指では、あの深さと、あの複雑さが再現できない。 脳が求めているのは、粘膜のひだ一つ一つを計算通りに震わせる、あの「多点センサー」の冷徹で完璧なアルゴリズムだ。
指を動かせば動かすほど、脳の奥で警報が鳴り響いた。 『入力エラー。要求された信号と一致しません』 そんなシステムエラーのような渇きだけが募り、虚しく終わった。
篠原は重い体を起こし、こめかみを押さえた。 満たされなかった神経が、まだジリジリと焦げ付いている。
「……また、聞こえる」
彼女は小さく呟いた。 耳鳴りではない。 それは、彼女の理性的な思考を邪魔するように、脳の深淵から湧き上がってくる、あの忌まわしいノイズ。
そのノイズは、病院へ向かう準備を始めてもなお、頭の片隅で粘り強く鳴り止まなかった。




