第91話 密室の共振(レゾナンス
定例会議を終えた篠原は、委員長室に戻ると、張り詰めていた肩の力をふっと抜いた。 サーバーから落としたてのコーヒーの香りが、無機質な部屋に広がっていく。
コンコン、とノックの音がした。
「どうぞ」
入ってきたのは久慈真理子だ。手には決裁書類の束を抱えている。
「失礼します。委員長、先ほどの会議の件ですが……」 「ああ、久慈先生。お疲れ様。座って」
篠原はカップを置き、柔らかな笑みを向けた。 今日のプレゼンは完璧だった。部下を労う余裕も十分にある。
「コーヒーでいいかしら? 一息ついてからで構わないわよ」 「あ、お気遣いありがとうございます。……では、頂きます」
久慈は恐縮しながらソファに腰を下ろした。 しばしの間、湯気と共に穏やかな時間が流れる。 決裁書類への捺印もスムーズに終わり、久慈が帰り支度を始めた時だった。
「そういえば委員長。ついでと言っては何ですが、整形外科で試験導入している『高密度多点センサー』の症例データ、ご覧になりますか?」
久慈が別のファイルを差し出す。
「高密度……? ああ、あの研究用の」 「はい。本来は歩行解析などに使う特殊な機材なんですが、非常に精細なデータが取れるので」
篠原は何気なくファイルを受け取り、ページをめくった。 そこには、患者の太ももから腰にかけて、びっしりと電極パッドが貼られた写真があった。
「――っ」
篠原の手が、ピタリと止まる。 一般的に普及している簡易的なセンサーではない。 一つ一つが独立し、神経の微細なパルスまで拾い上げる、黒く光沢のある吸着パッド。 それは、あの地下室で、深雪が愛おしそうに篠原の肌に貼り付けていった「あれ」と同じものだった。
「このセンサー、感度が良すぎて、貼るだけで神経が過敏になる患者もいるそうで……」
そう解説しながら、久慈は無意識に、白衣の上から自分の二の腕の内側を、ポリポリと指先で掻いた。 そこは、皮膚が薄く、神経が密集している敏感な部位だ。
(……!)
篠原は見てしまった。 その何気ない仕草が、ただの癖ではないことを。 かつて深雪が行った初期の臨床実験――その被験者リストに、久慈真理子の名前があったことを思い出す。
彼女の身体も、覚えているのだ。 あの粘つくようなゲルの冷たさと、そこから流し込まれた電流の味を。 久慈自身は忘れているつもりでも、細胞レベルに刻まれた「深雪の痕跡」は消えていない。
「委員長? 顔色が少し……」 「……いえ、なんでもないわ」
篠原はファイルを静かに閉じ、デスクの端へと追いやった。 動揺を見せないよう、あくまで平静を装う。だが、組んだ足には無意識に力が入っていた。
「興味深いデータね。……預かっておくわ。ありがとう、久慈先生」 「はい。では、失礼いたします」
久慈が一礼して退室し、ドアが閉まる。 再び訪れた静寂の中で、篠原は深いため息をつき、椅子の背もたれに体を沈めた。
「……嫌なもの、見せるんだから」
独り言は、空気中に溶けて消えた。 だが、身体の反応は消えない。久慈のあの仕草が、連鎖するように篠原の身体をも疼かせる。 彼女は不快そうに眉を寄せ、デスクの下で足を強く擦り合わせた。 タイトスカートの奥、下着のクロッチ部分に、じわりとした確かな「湿り」が広がっていくのを、彼女はただ黙って感じていた。




