第90話 日常の欺瞞
あれから、十日が過ぎた。 太ももに残っていた革ベルトの鬱血痕は完全に消え、鏡に映る肌は白く滑らかな輝きを取り戻している。 悪夢のような記憶も、日常という堅牢なコンクリートで塗り固めてしまえば、ただの「過去」だ。
月曜日の定例会議。第3会議室の空気は、いつも通り乾燥し、張り詰めていた。
「――以上が、新規導入予定の術中モニタリングシステムの検証結果です」
演台でポインターを握っているのは、外科の久慈真理子助教授だ。 スクリーンには、心拍数や血圧の変動グラフ、そして機器のスペック表が投影されている。
「従来機と比較し、生体反応の検知速度は0.5秒短縮。ノイズ除去のアルゴリズムも改善されており、より正確な患者情報の把握が可能となります」
久慈の声は明瞭で、自信に満ちていた。 白衣を着こなし、データの正当性を訴えるその姿は、優秀な外科医そのものだ。
上座に座る篠原美沙子は、手元の資料に目を落としつつ、心の中で冷ややかな優越感を反芻していた。
(……立派なものね、久慈先生)
篠原は知っている。 今、こうして「正確な検知」や「医療の安全」を説いている彼女自身が、かつて女医乃深雪の実験台となり、多点センサーにその身を晒した被験者であることを。 彼女のデータ――恥辱に塗れた反応ログ――を、自分だけが閲覧したことがあるという事実。 その「秘密の非対称性」が、篠原の傷ついたプライドを癒やす鎮痛剤となっていた。
「委員長、何かご質問は?」
不意に話を振られ、篠原はゆっくりと顔を上げた。 完璧なメイク、乱れのない長髪。そこにあるのは、病院の規律を守る絶対的な管理者の顔だ。
「いいえ。データの整合性は取れているわ。……『誤差』も許容範囲内ね」
あえて「誤差」という言葉を強調してみる。 末席に座る女医乃深雪の方を一瞥もしないまま、篠原は淡々と続けた。
「導入を承認します。ただし、運用には細心の注意を。機械が優秀でも、扱う人間に隙があれば事故は起きるものだから」
それは、自分自身への戒めか、それとも深雪へのささやかな牽制か。 篠原はボールペンを置き、書類にサインを書き込んだ。 指先の震えは、もうない。私は日常に戻ったのだ。
「――続きまして、当該システムと連動する『神経探索用スティミュレーター』のデモ動画をご覧ください」
久慈がスライドを切り替える。 画面には、術野(手術中の患部)を模した精巧なシリコンモデルと、ペン型の細いデバイスが映し出された。
「この新型プローブは、微弱なパルス電流を用いることで、視認困難な神経束をピンポイントで特定可能です。従来の電流値の十分の一で反応を得られるため、組織への熱侵襲も最小限に抑えられます」
動画の中で、プローブの先がシリコンの深部に触れる。 途端に、横にあるモニター画面の波形が鋭く跳ね上がり、警告音が鳴った。 『神経検知:深度12mm』という表示が出る。
「このように、モニターとセットで運用することで、執刀医はリアルタイムに神経の位置を把握できます。……まさに、不可視のものを可視化する『目』となるわけです」
久慈の説明に、会議室の医師たちが感心したように頷く。 外科部長も満足げに腕を組んでいる。
(不可視のものを、可視化する……)
篠原は、そのフレーズに一瞬だけ胸がざわついたが、すぐに表情を引き締めた。 これは医療だ。患者の命を救うための、正当な技術進歩だ。 そこに、あの地下室で行われたような倒錯した意味などない。あってはならない。
「……結構ね」
篠原は静かに口を開いた。
「モニターとスティミュレーター、セットでの導入を認めます。予算については事務局と調整するように」 「ありがとうございます、委員長」
久慈が深々と頭を下げる。 これで決まりだ。正式な承認が下りた。
会議終了のアナウンスが流れ、医師たちが席を立ち始める。 篠原も資料をまとめ、颯爽と退室しようとした。 その時、すれ違いざまに、ふわりと白衣の裾が揺れる気配がした。
「……良いご判断です、委員長」
耳元で、甘く低い声が囁かれる。 女医乃深雪だ。 彼女は足を止めず、そのまま篠原の横を通り過ぎていく。
「これで、もっと『深い場所』まで安全に探れるようになりますから」
深雪は振り返らなかった。 ただ、その一言だけを残し、軽い足取りで廊下へと消えていく。
篠原は立ち止まりかけた足を、強引に前へ踏み出した。 意味など考えるな。ただの外科医としての発言だ。 そう自分に言い聞かせる彼女の背後で、承認されたばかりの新型モニターのサンプル機が、待機モードの無機質な光を点滅させていた。
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助教授 久慈真理子




