第89話 偽りの終止符
風呂上がりの湯気が立ち込める中、美沙子はバスローブの裾を広げ、鏡の中の自分を見つめた。 特に太もものあたりだ。革のベルトが食い込んだ跡が、赤く腫れたように残っている。 数時間前、あの解剖台の上で何があったのか。拒絶しようとした意志とは裏腹に、肉体が歓喜して受け入れてしまった証拠が、嫌でも目に飛び込んでくる。
(……誤差、などではなかった)
始まりは、数値への疑念だった。だが、そんな逃げ道は完全に塞がれた。 あの生体反応計測装置は、残酷なほど正確だったのだ。 私の理性や尊厳などお構いなしに、肉体の反応だけを冷徹に暴き立てた。限界まで快楽を搾り取られ、あられもない痴態を記録され……。 倫理委員長である私が、通常の治験では絶対に許されない領域に、自ら足を踏み入れてしまった結果がこれだ。 結局、私は深雪の研究を完成させるための、単なる「生きたデータ」にされたのだ。
けれど、ぐったりと沈殿するような肉体の疲労感とは対照的に、頭の中は妙に冴え渡っていた。 あんなに悩まされていた臨床前のノイズや、頭の芯が痺れるような違和感が、嘘のように晴れている。
リビングで、ワインをグラスに注いだ。 香り高い液体を喉に流し込みながら、彼女は深雪が最後にくれた「救済」の言葉を反芻する。
『これは神経増幅パッチによる強制的な反応です。……あなたの意志とは関係のない不可抗力ですよ』
医学的な理由。不可抗力。 そう理屈で納得し、私はあの実験結果を「認めて」しまった。 頬がカッと熱くなるほどの羞恥心に蓋をするためには、その共犯関係を受け入れるしかなかったのだ。
だが、治験はこれで終了だ。結果は認めるが、これ以上、深雪の領域に深入りするのは危険すぎる――私の本能が、そう警鐘を鳴らしていた。
*
篠原が去った後の診察室には、重苦しいほどの静寂が戻っていた。 深雪は、まだ微かに温もりが残る解剖台のシーツを無造作に剥がし、廃棄ボックスへと投げ込む。 そして、デスクのモニターに向き直った。
画面には、先ほどの実験データと共に、自身の考察ログが表示されている。 赤く波打つグラフのピークは、正常な人間の理性が耐えうる限界値を遥かに超え、計測不能の領域――125%を叩き出していた。
(……誤差なし。だが、断定にはまだ早い)
脳外科医としての冷徹な理性が、安易な結論にブレーキをかけている。 これが一時的なエラーなのか、それとも脳の可塑性が引き起こした恒久的な「変質」なのか。現段階では、あくまで推測の域を出ない。
ただ、一つだけ確かなことがある。 もし今後、篠原が日常の中で「異常」を感じたら――ふとした瞬間にあの快楽がフラッシュバックしたり、体の震えが止まらなくなったりしたら――彼女はどうするか。
他に行くあてなどない。 この「恥ずべき秘密」を共有し、現象を医学的に説明できる唯一の人間――私のもとへ相談に来るしかなくなるのだ。
「……格好の研究材料ですね」
深雪は短く呟くと、キーボードを叩いてログを保存した。 モニターの電源を落とすと、青白い光が消え、部屋は急速に薄暗くなる。
彼女は白衣の裾を翻し、出入り口のスイッチに手をかけた。 パチン、と乾いた音が響く。 完全な闇に包まれた診察室を残し、深雪は足音もなくその場を後にした。




