第88話 不可抗力の証明
「篠原委員長。気づかれたようですね」
不意に、背後の打鍵音が止まり、深雪の落ち着いた声が響いた。
まるで昼下がりの医局で交わすような、あまりに自然なトーン。篠原は観念したように息を吐き、重いカーテンを引いた。
眩い光に目を細めると、そこにはデスクのモニターを落とし、椅子を回転させてこちらを見つめる深雪の姿があった。その瞳には、さっきまで篠原を蹂躙していた冷徹な「設計者」の影はなく、ただ静かに同僚の覚醒を待っていた医師の顔がある。
「コーヒーでも淹れますから。支度が終わったら、テーブルの方へ」
「……ええ」
淹れたてのコーヒーの香りが、無機質な研究室に漂い始める。それは、凄惨な治験の終わりを告げる、あまりに日常的で、あまりに残酷な「解放」の儀式だった。
促されるまま、研究室の奥にある応接テーブルへと腰を下ろす。タイトな委員長スーツに身を包み、膝を揃えて座るその姿は、一見すればいつもの厳格な篠原美沙子だ。だが、カップを持つ指先は微かに震え、白衣の下に残る拘束痕が、服の上からでも熱を持って存在を主張していた。
深雪が対面の席に着き、タブレットを操作する。
壁面のモニターに、二つのグラフが並列して映し出された。左側は、前回の「100」で止まったデータ。そして右側は、赤いラインが枠を飛び出し、「125.0」という異常値を叩き出した今回のデータ。
「……身体の始末、世話をかけたわね」
篠原はカップを口に運ぶ手前で、ふと視線を落として言った。
白衣の下、あれほど汚されていたはずの肌が不自然なほど清潔なのは、意識を失っている間に彼女が処置したからだ。
「いえ。当然の処置ですから」
「……ありがとう」
短く礼を言い、篠原は熱いコーヒーを一口だけ啜った。
最低限の礼儀は尽くした。これでもう、個人的な貸し借りはなしだと言わんばかりに、彼女はすぐに視線を壁面のモニターへと切り替える。
「……で、データはどうだったの? あの酷い数値は」
その問いに、深雪は待っていましたとばかりにグラフを拡大表示した。
「……酷い数値ね。機械が壊れたとしか思えないわ」
篠原はコーヒーカップを両手で包み込むように持ち、視線だけをモニターの赤いラインへと向けた。その声は震えを押し殺すように小さく、いつもの威厳ある響きは鳴りを潜めている。
深雪は否定せず、むしろ労わるように頷いて、画面上の特定箇所を指先でなぞった。
「ええ、おっしゃる通り。特に注目すべきはこの『立ち上がり』の角度です。刺激開始からピーク到達までの時間が、コンマ数秒しかない」
深雪は淡々と、しかし今の篠原が一番欲している「救済の論理」を紡ぎ出す。
「通常、人間が快楽を感じて脳が処理するまでにはタイムラグがあり、そこには必ず理性による『躊躇』が混ざります。ですが、今回のデータにはそれがない」
「……つまり?」
「貴女の意志が弱いからこうなったのではない、ということです。今回使用した『AS-09パッチ』の神経伝達速度が早すぎた。理性がブレーキを踏む前に、信号が脊髄を駆け抜けてしまった……いわば、生理学的な『不可抗力』です」
不可抗力。
その言葉に、篠原が小さく息を吐いたのが分かった。
私が乱れていたのではない。薬理作用による強制的な事故だったのだ。彼女は縋るようにその解釈を受け入れた。
「……そう。やっぱり、パッチの出力設定に問題があったのね」
「はい。設定ミスと言ってもいいでしょう。これでは検証になりません」
深雪は涼しい顔で嘘をつく。だが、ここで終わらせず、最も重要な「結論」へと誘導する。
「ただ、誤解なきよう。装置自体の計測精度には問題ありません」
「え?」
「見ての通り、パッチによる『異常な加速』も、装置は取りこぼすことなく正確に記録しきりました。ハードウェアとしての追従性、およびデータの整合性は、この極限状態においても完全に担保されています」
篠原は言葉に詰まり、目を伏せた。
認めたくはないが、あの異常な快楽の奔流を、この機械は正確に数値化していたということだ。
「……そう。それなら、いいの」
篠原は視線を床に落としたまま、独り言のように呟く。
「私の……あんな恥ずかしい反応も、システムの整合性を確認するためのサンプルになったというなら……無駄じゃなかったと思えるから」
「勿論です。非常に貴重な検証データでした。これで、生体システムへの疑念は完全に晴れました」
「……なら、導入は継続してちょうだい。これだけの精度があるなら、通常の患者には有益でしょう」
篠原は、逃げるように席を立った。
立ち上がる拍子に、内股に残る違和感が走ったのか、一瞬だけ顔をしかめ、すぐにスカートの裾をぎゅっと握りしめる。
その姿に、かつての鉄壁の委員長の面影はない。ただ、暴かれた裸身を必死に衣服で隠そうとする、一人の女性の弱々しさだけがあった。
「元はと言えば、私がこの装置の『誤差』を疑ったことから始まった話だったわね……」
「はい。委員長の厳格なチェックのおかげで、マシンの信頼性が証明されました」
深雪の言葉に、篠原は力なく首を振る。皮肉を返す気力すら残っていないようだ。
「……報告書、お願いね。私はもう、二度と御免よ」
そう言い残し、篠原は足早に出口へと向かう。
カツ、カツ、と響くヒールの音もどこか頼りない。
扉が閉まるその瞬間まで、彼女は一度も深雪の方を振り返ることはできなかった。




