第78話 神経系の階梯
生体反応計測装置の駆動音が、静まり返った研究室に規則正しく響いている。
診察台に横たわる篠原の視界には、無機質な天井の白光と、その脇で淡々と端末を操作する深雪の横顔しかなかった。
「……これから各部の固定に入ります。委員長もご存知の通り、パッチを用いた微細電位の測定には、体動によるアーチファクト(ノイズ)の排除が不可欠ですので」
深雪の声は、教科書を読み上げるように平板だった。
だが、その手が篠原の四肢を黒いベルトで拘束していくたび、ステンレスの冷たさが逃げ場を失った背中に突き刺さる。手首、足首、そして胸部。かつて自らが「被験者の安全とデータの正確性」のために承認した仕様が、今は彼女の自由を完璧に奪い去る檻となった。
「一般生体センサー、配置します。……呼吸、心音、大腿部の筋電位、確認」
深雪の指先が、患者着の隙間から篠原の肌に触れ、いくつかの小さな電極を貼り付けていく。
それは通常の健康診断と何ら変わらない、事務的な処置のはずだった。しかし、うなじのパッチがパルスを増幅し、脳の報酬系へと送り届けている今、その些細な接触すらもが、不穏な熱を持って脳幹を叩く。
(……まだ、何も始まっていない。これはただの、準備……)
篠原は目を閉じ、理性を必死に繋ぎ止める。だが、モニターに映し出される波形は、深雪がセンサーを一つ貼るごとに、階段を一段登るように、その「基底値」をじわじわと上昇させていた。
「バイタル、安定していますね。……では、深部の計測に移ります」
深雪がトレイから、あの重厚な拡張型多点センサーを手に取った。
「再現性評価のため、前回と同条件にて挿入します。……失礼」
宣告と同時に、冷たい潤滑剤の感触が入り口を打つ。
「っ、あ……」
センサーがゆっくりと、だが容赦のない圧力で彼女の聖域を占拠していく。内壁の広い面を捉えるその独特の圧迫感。パッチを介した神経系は、その物理的な「侵入」を瞬時に電気信号へと変換し、側坐核へと直結させた。
拡張型多点センサーが、篠原の最奥――その「深部」へと、逃れようのない質量をもって到達した。
「……最深部、到達。接触抵抗、正常。……全セグメント、同期します」
深雪は淡々と、しかし極めて慎重に端末を操作する。
篠原は、拘束ベルトに沈み込んだまま、荒い吐息を殺そうと唇を噛んだ。まだ、具体的な「刺激」は何も与えられていない。ただ、センサーがそこにあるという事実と、パッチが神経の感度をじわじわと引き上げているという事実。その二つが組み合わさるだけで、彼女の脳は、かつてないほど「過敏な沈黙」に支配されていた。
「……見てください、委員長。非常に興味深いデータです」
深雪がモニターを少しだけ篠原の方へ向けた。
そこには、物理的な愛撫など一切行われていないにもかかわらず、心拍と皮膚電位が階段を一段ずつ登るように、一定のリズムで底上げされていくグラフが映し出されていた。
視神経が捉えるのは、モニター上で階段を登るように刻まれる心拍の波形。だが、彼女の意識を支配しているのは、首の後ろに打ち込まれたパッチからの、逃れられない「同期感」だった。
(……あ、つい……っ)
物理的な愛撫は、まだどこにもない。しかし、深部を占拠するセンサーの無機質な圧迫感は、頸髄に貼られたパッチを介して、脳内の報酬系へと直接流れ込んでいく。
脊髄を通り道として、パルスが増幅され、熱を帯びる。
その電気的な熱量は、かつての「スパイク」の記憶を呼び覚まし、神経節を一つずつ焼き直していく。一段、また一段。何もしなければ静まるはずの生体反応が、パッチというブースターを得たことで、自律的な連鎖反応へと変質していた。
拘束ベルトに固定された手足は、わずかに、しかし確実に震えている。
それは恐怖によるものではなく、脳の深部――側坐核から溢れ出したドーパミンが、運動神経を勝手に叩き、次の衝撃を迎え入れるための「準備」を強制している証だった。
意識という名のフィルターは、増幅され続けるこの「ざわめき」をもう堰き止められない。
脊髄から脳幹へと駆け上がる信号は、もはや篠原自身の意志とは無関係に、装置が求める「理想的な検体」としての反応を叩き出し続ける。
絶頂にはまだ遠い。だが、出口のない熱量が脳内で渦を巻き、報酬系の回路を真っ赤に染め上げながら、臨界点のすぐ手前でぐるぐると回る。
静寂の中で、篠原の肉体はただひたすらに「完成」を待っていた。
装置が、深雪が、そして自分自身の脳が望む、抗いようのない「その瞬間」の訪れを。




