第77話 理性の楔(くさび)
カーテンを開け、研究室の白光の下に戻った篠原は、無防備な自分自身に強い目眩を覚えた。
薄い患者着一枚。下着を奪われた身体は、歩くたびに微かな衣擦れの刺激をダイレクトに脳へと伝える。かつて審議資料で目にした「被験者の皮膚電位を妨げないための専用着」という無機質な文言が、今の彼女には、自身の尊厳を剥ぎ取るための残酷な仕掛けにしか感じられなかった。
深雪は、巨大な生体反応計測装置の操作パネルの前に立っていた。
その平熱の視線が、篠原の姿を上から下へと、検体をスキャンするようにゆっくりと辿る。患者着の柔らかな布地越しでも隠しきれない、篠原の熟れた肉体の起伏。緊張で硬く尖った胸の輪郭が、深雪の瞳に冷徹なデータとして記録されていく。
「……着替え、終わりました」
篠原は、自分の声が微かに掠れていることに気づき、慌てて喉を鳴らした。
「ええ。あくまで前回の踏襲による、適正な医療行為ですから。不安に思う必要はありませんよ、委員長。……さあ、こちらへ」
深雪は事も無げに言って、装置の中央に鎮座する拘束台を指し示した。
篠原は吸い寄せられるように歩を進め、冷たいステンレスの縁に腰を下ろす。剥き出しの太腿に伝わる金属の拒絶的な冷たさが、彼女の報酬系に、より鮮明な火を灯した。
「まずは、今回の主眼であるデバイスの装着から行います。委員長、少し背を向けていただけますか」
深雪がトレイから取り出したのは、薄く柔軟なフィルム状のパッチだった。それを見た篠原の眉が、微かに動く。
(……高解像度頸髄電位増幅パッチ。まさか、これを実用化していたの?)
事前に聞いていたのは、皮膚に貼付するだけの簡易的なセンサーだったはずだ。だが、深雪が手にしているのは、その遥か先を行く代物だった。
「頸髄、特にうなじの周辺は、脳幹からの信号が最も純粋に反映される部位です」
深雪は篠原の内心の動揺を見透かしたように、淡々と解説を加える。
「ここへ貼付することで、微かな神経パルスを脊髄後角から直接読み取り、あなたの『内側の反応』をタイムラグなしで装置へ同期させます。……事前に説明した通り、非侵襲的な『パッチ型』であることに変わりはありません。……そうでしょう?」
深雪は冷たい消毒綿で、篠原のうなじを丁寧に拭った。アルコールが揮発する冷感に、篠原の肩が微かに跳ねる。
「微細なニードルが皮下組織に接触するため、最初だけ、少しチクリとしますが……。よろしいですね?」
深雪の瞳が、同意を求めて篠原を覗き込む。拒めば、自分がこの「高度な計測」を恐れている――つまり、自分自身の反応を恐れていると認めることになる。
「……ええ。構わないわ。……やって」
篠原が苦い唾を飲み込んだ瞬間、深雪の指先がパッチをうなじに押し当てた。
「っ……」
小さな棘が刺さるような鋭い痛みが走る。
篠原は奥歯を噛み締め、その刺激をやり過ごした。だが、パッチが起動し、装置との同期が確立された瞬間、うなじの皮膚を通して、自分のものではない「電子の拍動」が神経系に直接流れ込むような、逃げ場のない違和感に襲われる。
深雪は声を発しなかった。ただ、無機質なモニターを見つめるその瞳だけが、静かに動く。
画面上の心拍(赤)と皮膚電位(緑)のライン。
パッチが貼付された直後、平坦だった波形が、目視できるかできないかの微かな振幅を刻んだ。それはまだ、爆発的な発火ではない。だが、何もしていないはずの初期段階において、報酬系が外部刺激に対して**「過敏な待機状態」**に入ったことを示す、疑いようのない予兆だった。
深雪はその小さなスパイクを「反応あり」と記録し、次の操作へと移る。
篠原は、自分の理性がまだ機能していることに安堵しようとした。
しかし、うなじに打ち込まれた「楔」が、自身の脈動と共鳴し、熱を持った異物として脳の深部を揺さぶり始めていることに、彼女はまだ気づかない振りをしていた。




