75話 確認の代償
火曜日、午後五時。
倫理委員長室に差し込む冬の西日は、鋭いメスのようにデスクの上の書類を切り裂いていた。
篠原美沙子は、既に終わったはずの報告書に目を滑らせながら、無意識に左手の指先で自分のうなじをなぞっていた。
「……あれは、誤差よ」
誰もいない部屋で、彼女は自分自身を説得するように呟いた。
一週間前、あの窓のない研究室で起きたこと。多点センサーという最新鋭のデバイスが、彼女の脊髄に直接叩き込んだ、狂おしいまでの情報の嵐。
あれは医学的な異常事態であり、彼女自身の意志や欲望とは無関係な「ノイズ」であったはずだ。前回の実験が「寸止め」という不完全な形で終わったからこそ、身体の中に正体不明の疼きが残像として居座っているだけなのだ。
「正確なデータさえ録れれば、それで全ては終わる……」
彼女は自分にそう言い聞かせ、震える指先でブラウスの襟元を正した。
女医乃深雪は、今夜の『追加計測』のために新しいデバイスを用意したと言った。パッチ型の、皮膚に貼るだけのセンサー。
外科的な処置を伴わないというその言葉は、篠原にとって最後の避難所のようでもあった。手術を伴わないのであれば、それはあくまで「診察」の延長であり、倫理委員長としての正当性を保てるはずだと。
だが、白衣を脱ぎ、私服のワンピースに着替える際、鏡に映った自分の顔に彼女は戦慄した。
頬は微かに上気し、瞳には怯えと、そして否定しきれない「期待」が、薄汚い澱のように沈んでいる。
午後五時四十五分。
篠原は部屋の明かりを消し、鍵をかけた。
人気の消え始めた病院の廊下を歩く足音は、静まり返った館内にやけに大きく響いた。すれ違う夜勤の看護師に会釈を返しながら、彼女の背筋を冷たい汗が伝う。
(私は、委員長として……あの研究の不備を指摘するために行くのよ)
心の中で繰り返す論理は、歩を進めるたびに薄氷のようにひび割れていった。
廊下の角を曲がるたび、うなじの皮膚が、まだ見ぬデバイスからの刺激を予見するかのようにジリジリと熱を持つ。自分の肉体が、深雪の待つ「あの場所」に近づくことを、理屈よりも先に喜んでいる。その事実が、何よりも篠原を辱めた。
研究室の重厚な扉の前に立ったのは、約束の午後六時ちょうどだった。
ドアノブに手をかける。金属の冷たさが、火照った手のひらに突き刺さる。
篠原は大きく一つ呼吸を置き、理性の仮面を貼り直すと、静かに扉を押し開けた。
「……失礼するわ、深雪先生」
白光が溢れる室内。
そこには、笑顔も、歓迎の言葉もなく、ただ平熱の眼差しを湛えた女医乃深雪が立っていた。
ステンレスのトレイの上には、プランC――透明な、死神の鎌のようなフィルムが、無機質に光を反射させていた。
「お待ちしていました、委員長。……さあ、こちらへ」
深雪の声が、篠原の思考の防壁を、最後の一枚まで容易く踏み抜いていった。




