第74話 内線電話の取引
午後の外来診察の合間、篠原のデスクにある内線電話が無機質な音を立てた。
液晶表示には「深雪研究室」。その文字を見ただけで、篠原は無意識に姿勢を正し、受話器を取った。
「はい、篠原です」
『お疲れ様です、篠原委員長。深雪です』
受話器から流れる声は、驚くほどに平熱だった。一週間、自分を散々悩ませてきた「ノイズ」の元凶とは思えないほど、それは純粋な業務連絡としての響きを持っていた。
『例の治験の件ですが、デバイスの調整が固まりました。来週の火曜、18時以降の枠を押さえたいのですが、委員長のご予定はいかがですか?』
淡々と進められるスケジュール調整。篠原は手元のタブレットで予定表を確認しながら、昨夜から喉に突き刺さっていた懸念を口にした。
「……予定を確認する前に、一ついいかしら。深雪先生、私は『手術』を伴うような、体に傷を残す真似は絶対に認めないわ。それが条件よ」
一瞬の間があった。
受話器の向こうから、小さく、喉を鳴らすような苦笑が漏れ聞こえた。
『――先生、何をおっしゃっているんですか?』
深雪の声には、明らかな呆れが混じっていた。
『流石に手術なんて、現段階でするわけがないでしょう。医学的にも飛躍しすぎです。埋没型と言っても、先生もご存じの通り、パッチ型の貼り付けデバイスですよ。私の研究室にあるシステムと同期させるだけの、非侵襲的なものです』
「……パッチ、なのね」
篠原は自分の過剰な警戒が滑稽なものに思えてくる。自分が最悪の事態(手術)を想定して一人で怯えていたことが、深雪の「専門的な正論」の前では、自意識過剰な思い込みとして片付けられてしまった。
「……分かったわ。火曜の18時、あなたの研究室ね。確保したわ」
『了解しました。では、当日お待ちしています』
短く電話が切れた。
受話器を置いた篠原の手には、じっとりと汗が滲んでいた。
(パッチ……そう、パッチよね。手術なんて、そんなわけないわ)
自分に言い聞かせながらも、深雪の「当然」と言わんばかりのトーンが耳に残る。
「手術ではない」という安堵が、皮肉にも深雪への警戒心をわずかに緩め、彼女を「来週の火曜」という確定した予定へと向かわせていた。




