第71話 論理の残響
医局の自室に戻り、鍵を下ろす。
篠原はデスクに崩れることはせず、深々と椅子に腰を下ろした。机の上に置いた自分の指先が、わずかに震えている。彼女はそれを反対の手で静かに抑え込み、自嘲気味に息を吐いた。
(……見事なプロトコルだわ)
冷静に振り返れば、すべては計算されていたのだと気づく。
マシーンの導入に強硬に反対していた自分に対し、深雪が持ちかけた「委員長自身のデータによる安全性の確認」。あれは懐柔などではなく、私という個体を『検体』として登録するための巧妙な誘い出しだった。
研究者としての矜持を刺激され、自ら診察台に横たわったあの日から、すべては始まったのだ。深雪は決して強要せず、常に私に「追加データの必要性」を説き、私自身の意志で一歩ずつ引き返せない深みへと足を踏み外させてきた。
(あの子は知っている。私がこのポストに、どれほど固執しているかを)
深雪は日本屈指の腕を持つ外科医だ。彼女にはこの病院に留まる理由など何もないが、自分はこの委員長という地位を守るために、彼女の離脱というリスクを何としても避けなければならない。そして今や、彼女のタブレットの中には、決して公式にはできない「私の肉体の真実」が、逃げ場のない証拠として蓄積されている。
「……毒さえ使わず、言葉と状況だけでここまで追い詰めるなんて」
深雪は私を人間として扱ってはいない。羞恥に悶える姿さえ、彼女にとっては『刺激に対する応答精度』を測る指標の一つに過ぎない。私はただ、高精度なデータを提供し続けるための生体パーツに成り下がったのだ。
窓の外では、夕暮れの病院が静かに闇に呑まれようとしていた。
震えを抑えようとする指先に、いまだ消えない多点センサーの異物感が蘇る。
思考を切り替えようとしても、耳の奥では、あの診察室で聞いた深雪の無機質な声が何度も繰り返されていた。
「次回の追加治験では……埋没型センサーを使用します」
その冷淡な宣告が、まるで逃れられない死刑宣告のように、いつまでも彼女の脳裏から離れなかった。




