第70話 論理の檻と肉体の残響
診察室に、コーヒーの苦い香りが澱んでいる。カーテンの奥から出てきた篠原は、着替えを終えたばかりのブラウスの襟元を整える指先が、微かに震えていた。氷水のガーゼで無理やり鎮めたはずの「処理」の余韻が、彼女の顔から血の気を奪い、代わりに取り付く島もないほどにやつれた影を落としている。
深雪は振り返りもせず、手元のタブレットに視線を落としたまま静かに告げた。
「……お疲れ様でした。飲み頃ですよ、委員長」
篠原は促されるまま、重い足取りで対面の椅子に腰を下ろす。一口啜ったコーヒーの熱さが、感覚の麻痺した喉を焼く。
「……今回のデータ、以前のものとは明らかに解像度が違いますね」
深雪がスライドさせた画面には、篠原が先ほどまで味わわされていた辱めのすべてが、無機質な波形となって刻まれていた。
「多点センサーにより、特定の神経束が発するパルスを個別に分離しました。あなたが『止めて』と発声する直前、このポイントの電位が閾値を突破している。……末梢の受容器が刺激を拒絶しているのではなく、特定のパルス変調に対して受容体が高感度化し、脊髄レベルでのフィードバック・ループが既に完成していることを示しています」
深雪の声には、嘲りも同情もない。ただ、観測事実を読み上げる機械のような冷たさがあった。篠原はカップを握りしめ、やつれた顔を伏せたまま、震える声でその防衛線を絞り出した。
「……認めないわ。確かに、そのパルス刺激に私の肉体が強く反応したことは……事実よ。否定はしない。でも、それは単なる末梢神経の強制的な発火に過ぎないわ。強い電流を流せば筋肉が収縮するのと同じ、純粋な物理現象よ。このグラフの波形が、私の『意志』や『悦び』を証明しているなんて解釈……研究者として、到底認められない」
自らの肉体が熱を帯びた事実だけは認め、しかしそれを「魂のない反射」だと言い切ることで、彼女はプライドの端切れを繋ぎ止めようとする。深雪は、その必死な境界線を見透かすように、残酷なほど穏やかに頷いた。
「なるほど。『反射』と『受容』の分離、ですか。委員長の仰る通り、現在の外部装着型センサーでは、中枢神経……つまりあなたの『心』が関与した反応かを完全に切り分けることは難しい」
「……でしょう? だから、このデータは不完全よ」
「ええ。ですから、次回の追加治験ではその不確定要素を排除しましょう。皮下神経、より中枢に近いポイントに直接干渉する埋没型センサーを使用します。反射という名の逃げ道を塞いだ状態で、なおこの波形が現れるのか……。あなたの仰る『物理現象』の正体を、徹底的に検証しましょう」
「……っ!」
篠原の息が止まる。深雪が「埋没型」という言葉を口にした瞬間、彼女のスカートの下、タイトな生地に包まれた内腿がぴくりと跳ねた。その震えは止まることを知らず、膝へと伝わり、床を叩こうとする。
だが、篠原はそれを許さない。委員長としての、そして研究者としての矜持が、肉体の裏切りを力尽くで抑え込む。彼女は残っていたコーヒーを飲み干すと、音を立てずにカップを戻した。
「……ええ。検証は必要ね。ご連絡、待っているわ」
彼女はゆっくりと立ち上がった。内腿の強張りを悟られぬよう、一歩一歩の足運びに細心の注意を払い、乱れのない動作でバッグを手に取る。深雪に背を向け、ドアへ向かうその背筋は、あえて誇示するように真っ直ぐに伸びている。
だが、その指先がドアノブに触れた瞬間、わずかにブラウスの背中が波打った。必死に平静を装う彼女の背中を見送りながら、深雪は手元のタブレットに刻まれた、隠しきれない生体データの余震を、静かに見つめていた。




