第69話 境界と沈黙
深雪はタブレットの入力を終えると、椅子を回し、無機質なレール音を立てて診察台の周囲のカーテンを引いた。一瞬にして、篠原の世界は数平方メートルの、白く濁った密室へと変わる。
「……カーテンを閉めましたので、そこでお着替えください」
布越しに届く深雪の声には、感情の起伏が一切ない。
「ガーゼも、そちらに用意しておきました。……必要ですね。冷たくしてお使いください。お着替えが終わる頃に、コーヒーを淹れますので」
深雪の足音が遠ざかり、代わりにコーヒーメーカーが駆動する低いうなりが聞こえ始める。篠原は、患者着の合わせ目を握りしめたまま、狭い空間に一人取り残された。
(……冷静に。私は、まだ……)
自分に言い聞かせるように呼吸を整えるが、患者着の隙間から滑り込む冷気が、先ほどまでの実験の余韻を容赦なく暴き立てる。トレイに乗せられた、氷を浮かべた水と、純白のガーゼ。彼女はそれを、しばらく見つめ続けた。
意を決して、患者着の紐を解く。薄い布が肌を離れるたび、微かな衣擦れの音がカーテンの向こう側――深雪の耳へと届くのではないかという疑念が、彼女の背中を強張らせた。
ガーゼを氷水に浸し、滴る滴を絞る。
篠原は、震える手でその冷塊を、スカートの奥……未だに自身の制御を離れ、熱を帯びて拍動を繰り返している秘部へと押し当てた。
「…………っ、……あ」
悲鳴にも似た溜息が漏れ、慌てて手で口を覆う。
焼けるような熱感と、刺すような冷気。
「必要ですね」という深雪の言葉通り、ガーゼが吸い取っていくのは、肉体の分泌液だけではない。委員長として保ってきた、形ばかりの威厳までもが、冷たい水の中に溶け出していくようだった。
濡れた肌を拭い、何度かそれを繰り返す。そのたびに、自分が深雪の「管理下にある検体」に過ぎないという事実を、自らの指先を通じて再確認させられた。
ようやく制服に袖を通し、ブラウスのボタンを一番上まで留める。指先は凍えるように冷たいのに、身体の芯には、抗いようのない疼きが居座り続けている。
鏡のない密室で、彼女は手櫛で髪を整え、最後にもう一度、深く息を吐いた。
カーテンの向こう、コーヒーの香りが濃くなっている。
篠原は、鉄の仮面を被り直すように表情を硬くすると、静かに布を横に引いた。
そこには、すでに二つのカップを並べ、湯気を見つめている深雪の背中があった。
「……。お待たせしました、深雪さん」
「……ええ。そちらのテーブルへ。おかけください」
深雪は振り返ることなく、まるで何も見ていなかったかのように、あるいは全てを見通しているかのように、静かに着席を促した。




