第64話 再現試験をめぐる駆け引き
研究室・臨床後
拘束具が外され、篠原はゆっくりと上体を起こした。 額の汗を拭っても、呼吸の乱れはまだ収まらない。
深雪は端末を閉じ、変わらぬ無表情で言葉を落とす。 「――委員長。閾値突破は確認できました。 ですが一度きりのデータでは、臨床的な意味を持ちません。 再現性の確認が必要です」
「……っ」
篠原の指が膝の上で固く握られる。 (やはり、そこまで……。わかっていた、でも――)
「再現……」唇がわずかに震える。 「……本当に、必要なのでしょうか」
問い返しながらも、その声には自信が宿らない。 委員長として研究の正当性を守る立場にある以上、 否定は自分自身の存在を揺るがすことになる――篠原はそれを痛いほど理解していた。
篠原は深く息を整え、わずかに姿勢を正した。 「……ただ、一度きりの反応を“閾値突破”と断定するのは、早計ではありませんか。 条件の制御、環境の揺らぎ……確認すべき要因は他にもあるはずです」
言葉を並べながら、心の奥では必死に逃げ道を探していた。 (委員長としての権限で、“条件不足”を理由に止められないか……)
だが深雪は即座に切り返す。 「だからこそ再現試験が必要です。 環境要因を排除し、同一条件での反応を重ねなければ、 “誤差”か“事実”かを判別できません」
「……っ」
篠原は思わず視線を逸らした。 (……封じられた。逃げ道を提示したつもりが、逆に“再現性”を正当化させてしまった……)
指先に力が入り、膝の上の爪が沈み込む。 「……臨床倫理の観点からも、軽々に繰り返すことは……」
しかしその声も、深雪の冷徹な眼差しに射抜かれて途切れた。
沈黙が落ちた研究室に、機器の冷却音だけが響いていた。 篠原は唇を噛みしめ、必死に言葉を探す。 (委員長として……拒めば、この臨床そのものを否定することになる。 でも……これ以上、あの台に……)
深雪は一歩も引かず、ただ淡々と告げる。 「――委員長の同意なくしては進めません。 ですが、確認を怠れば研究の正統性は揺らぎます」
その言葉は、逃げ道を塞ぐ刃だった。 篠原の胸が大きく上下し、羞恥と恐怖がせめぎ合う。 だがついに、低く押し殺した声で答えた。
「……必要なら……再確認を」
口にした瞬間、背筋に冷たいものが走る。 (言ってしまった……これで、私は……)
深雪は端末に短く記録を打ち込み、変わらぬ声で応じた。 「承知しました。次回以降、条件を揃えて再試験を実施します」
篠原は俯き、震える指で額の汗を拭った。 外見は委員長の冷静を保つよう装っていたが―― 胸の奥では、“被験者”として再び台に乗せられる未来を突きつけられ、 その重みから逃れられずにいた。




