第58話 臨床前の対面
研究室・夕刻
時計の針が六を指した頃、研究室の扉が静かに開いた。 篠原が一歩踏み入れると、白光に包まれた室内で深雪が立ち上がった。
「ようこそ、委員長。どうぞこちらへ」
机上には二つのカップ。立ちのぼる湯気が、わずかな和らぎを演出していた。
「……お茶まで」
「本日は、導入初期に得られた波形の“誤差確認”です。落ち着いてご覧いただければ」
篠原は椅子に腰を下ろし、端末を見やった。画面には手順書が整然と表示されている。
深雪は指先で項目を示した。 「流れは――拘束下でのセンサー装着、基礎生体反応の確認。その後、導入初期と同じ清拭処置を行い、機器の感度や再現性を確かめます」
篠原は無言で頷き、カップを手に取る。 温かな苦みが舌に広がっても、胸のざわめきは収まらなかった。
(……これは“誤差の確認”。そういう建前で来たのだから。臨床なんて、大げさに考える必要はない)
そう自分に言い聞かせながらも、端末に映る赤い波形の残像が脳裏から離れなかった。
深雪の説明を聞き終えた篠原は、小さく頷いた。 「……誤差確認なら、必要なことですね」
声色は委員長としての冷静さを保っていたが、胸の内には微かなざわめきが残っていた。
深雪に案内され、隣室の準備室に入る。白いカーテンに仕切られた小さな空間。 ラックには患者着が整然と並び、畳まれたタオルと消毒液の匂いが漂っていた。
篠原はジャケットを脱ぎ、畳まれた椅子に掛ける。 次いでスカート、ブラウスを外し、静かにたたむ。
鏡に映る下着姿の自分と目が合い、思わず視線を逸らした。 (……委員長の仮面を外せば、ただの被験者に過ぎない)
患者着の布地を手に取り、頭から通す。軽くて、だが頼りない衣服。 肌に触れた瞬間、思わず背筋が粟立つ。
鏡に映った姿は――制度を守る盾ではなく、これから臨床に臨むひとりの対象者。
篠原は両手で髪をまとめ直し、深く息を吐いた。 「……誤差確認。それだけ」
小声で繰り返し、自分を支える。 だが胸の奥では、赤い波形が脈打つたびに、その言葉を裏切っていた。




