第57話 臨床の扉
鏡の前で、篠原は静かにスーツの襟を正した。 髪をまとめ直し、胸元のボタンをひとつ留める。淡い紅を引いた唇から、息がわずかにこぼれた。
「……委員長として、確認に行くだけ」
言葉にすれば、心は落ち着く。 だが視線の奥では、昨夜の波形がまだ赤く跳ね上がっていた。――久慈主任の数値。常識を越えた閾値突破。 記憶を振り払うように、スカートの裾を整える。
端末を鞄に収め、グラスに水を注いで一息に飲み干す。冷たさが喉を過ぎても、胸のざわめきは収まらなかった。 (……研究者としての目は、沈黙してくれない)
玄関に立ち、鍵を手に取る。 「12件の症例報告の確認。それ以上でも以下でもない」 そう繰り返して、扉を開ける。
だが心臓は、研究室の白光を思い出すたびに、ひときわ強く脈打っていた。
研究室・深雪
白光に照らされた室内で、深雪は端末を開いたまま手を止めた。 画面には、篠原の被験予定カルテと《毒型触手・複合解析》のフォルダが並んでいる。
机上には、新型拘束装置。 腕部・膝部の締め付け圧を再調整し、センサーの感度を数値で確認していく。わずかな誤差も許さない冷徹な指先。 同時に、微量の分泌液をガーゼに添付し、ケースに収めた。
(……これで、閾値は突破するだけでは終わらない。 固定され、再配線され、報酬系は刻み込まれる)
端末の画面に保存マークが点滅し、やがて静かに消える。 深雪の視線は動かない。 ただ、扉の向こうに迫る気配を待っていた。
――廊下から、規則正しい足音が近づく。 硬質な靴音が一歩ずつ響き、研究室の前で止まった。
深雪は椅子から立ち上がる。 冷たい光が白衣を照らし、その瞳は揺らぐことなく扉の方を見据えていた。
(……さあ、委員長。ここから先は、“確認”では済まない)




