第56話 被験予定カルテ
委員長室・篠原
業務を終えた夕刻、篠原は机に身を沈めていた。 端末のスケジュールには、来週の午後一に設定された「研究室訪問」の文字。 公式には「12件の症例報告の確認」――それだけの予定。だが、その裏に潜む意味を、彼女自身が一番よく知っていた。
(……委員長として臨む。けれど、研究者としての私が、沈黙してくれるだろうか)
胸元に指を当てる。 そこには、センサーを押し当てられた淡い痕がまだ残っていた。 スーツで隠せる。しかし、自分の目はごまかせない。 昨夜の赤い波形、身体を突き抜けた閾値突破の残像が、網膜の裏で呼吸を刻んでいた。
「……委員長として、確認のために行く。それだけのはず」 声に出してみる。だが舌の上で震える言葉は、女としての揺らぎを消してはくれなかった。
篠原は眼鏡を外し、机上の報告書を閉じる。 視界が霞んでも、脳裏には赤い曲線だけが鮮明に浮かんでいた。
研究室・深雪
白光の下、深雪は端末を操作しながら、静かに記録を更新していた。 モニターには「被験予定カルテ」の表紙が浮かび、黒字で打たれた文字が整然と並んでいく。
研究目的(追記メモ)
快楽の**閾値(境界点:刺激に対し無反応から全身反応へ切り替わる瞬間)**を定義し、数値化する。
閾値突破の再現性を確認し、報酬系の再配線が起こる条件を特定する。
被験者の「理性」と「依存傾向」の変化を追跡し、持続的従属を誘発する仕組みを検証する。
毒型触手の分泌液を、刺激の補助因子として組み込む可能性を探る。
深雪は指先で次のページを呼び出した。篠原のカルテ。 年齢、既往歴、役職――委員長という肩書きが淡々と記載され、その下に臨床予定の項目が並んでいた。
予定手順:拘束下でのセンサー装着 → 基礎生体反応の確認 → 清拭(局所刺激)による閾値誘発。
補助操作:分泌液を微量添付し、反応遅延・痙攣誘発を加味したシナリオを準備。
観測項目:心拍・呼吸・皮膚電位・膣粘膜湿度指標・骨盤帯EMG。
「……委員長の肩書きは、もう防壁にはならない」 深雪は端末を閉じ、無表情で呟いた。
机の上には、新型拘束装置の調整マニュアルが開かれている。 腕部・膝部の締め付け圧、センサー感度の再校正。 ひとつずつ設定値を入力し直すたび、深雪の眼差しはさらに冷ややかになっていった。
(――閾値は突破するためではなく、“固定”するためにある。 そのための素材も、装置も、すでに揃っている)
静かなクリック音とともに保存ボタンが押される。 《被験予定カルテ・篠原美沙子》――ファイル名が、冷たい光の中で確定した。




