第53話 委員長の独白と冷徹な準備
篠原・帰宅後
玄関を閉めた瞬間、篠原は背中を壁に預けた。スーツの袖口を緩め、鞄を置く。 (……今日の確認は、ただの“症例報告”のはずだった)
リビングに足を運び、グラスに水を注いで口を潤す。喉は乾いているのに、胸の奥のざわめきは収まらない。 (……結局、私は拒んだのかしら。……それとも、了承した?)
ソファに腰を下ろすと、スカートの下で脚が震えているのに気づいた。膝下の赤い痕は、朝よりもくっきりと浮かんでいる。ジャケットを脱ぎ、ブラウスのボタンを外すと、胸元にも薄い痕が残っていた。
(……膝下の圧痕:持続時間およそ6時間以上。末梢血流の再灌流遅延あり) (……胸部センサー痕:皮膚電位の残留が推測される。呼吸パターンは依然として浅い)
思考は「委員長」であろうとするが、指は無意識に痕をなぞっている。 (委員長なら、これを“隠す”と記録する。でも……研究者なら、“残存反応”と呼ぶだろう)
グラスを握る手に力が入り、水面が揺れる。 「……違う。私は委員長」 声にしてみる。だが、鏡に映るのは胸を押さえた女の姿だった。
思考は打ち消そうとするたびに逆流する。久慈主任の波形――閾値を越えた赤い跳ね上がり。 そして、自分が画面から目を逸らせなかった事実。
(……閾値突破波形:疼痛経路では説明不能。誤作動の可能性は低い。再現条件の特定が必要) (……被験者の心理状態:拘束下、局所清拭。緊張と羞恥が複合因子となった可能性)
篠原はソファに身を沈め、両腕で自分を抱きしめた。肩口から滑り落ちるブラウスが、豊満な胸の起伏をあらわにする。呼吸は次第に荒くなり、瞳を閉じても波形が網膜に浮かぶ。
「……また、私は……」 震える声が漏れた。委員長としての仮面が剝がれ、研究者のメモと女の吐息が交錯する。
夜の静寂には、もう「委員長の声」だけは残っていなかった。
深雪・研究室
同じ時刻、深雪は端末の前に座っていた。保存フォルダを開き、《毒型触手・複合解析》のファイルを呼び出す。モニターに三つの成分ピークが並び、シミュレーション結果が静かに点滅している。
(A=痙攣、B=抑制、C=残留。単独では毒、組み合わせれば“制御”になる。……進展は十分)
深雪は新しいタブを開き、篠原の名を入力した。 「補足症例――委員長のデータ」 空欄のセルを眺め、唇に微かな笑みを刻む。
(……拒むはずがない。自ら確認しなければ、誤差は誤差のまま。研究者であれば、必ず踏み込む)
冷却装置の低い唸りが研究室を満たす中、深雪は指を止めずに打ち込んだ。 「準備は整っている。あとは――舞台に上がるだけ」




