第51話 誤作動の影
研究室・午後
白光に包まれた研究室の扉を押し開けると、深雪が立ち上がった。 「ようこそ、委員長。どうぞこちらへ」
小さなテーブルの上にはカップが二つ。ほのかに立ちのぼる香りに、篠原はわずかに肩の力を抜いた。 「……お茶まで用意していただいて」 「本日は“確認”ですから。落ち着いてご覧いただければ」
二人は椅子に向かい合い、端末のディスプレイが起動する。整然と並んだ12件の症例グラフ。心拍、呼吸、皮膚電位――どれも安定した山と谷を描いている。
篠原はグラフを指で拡大しながら、ふと眉を寄せた。 「……この第4症例。呼吸リズムにわずかな遅延がありますね。被験体の緊張によるもの?」
深雪は即座に答える。 「はい。初回装着時の拘束反応です。数分で収束しており、全体の傾向に影響はありません」
「なるほど……確かに、皮膚電位の値は落ち着いていますね」 委員長として冷静に頷きながらも、篠原の瞳には研究者の光が宿る。 (……生体が“拘束”にどう反応するか。疼痛研究では扱えない領域。……だが、このデータは確かに臨床的価値がある)
篠原はカップを手に取り、口を湿らせた。苦みが舌に広がる。 「……正規の12件は、おおむね安全性を担保できている。そう見てよいのですね?」
深雪はわずかに頷き、画面をスクロールさせた。 「ええ。問題はありません。――ただし、導入初期に取得した久慈主任の清拭処置の波形については、補足説明が必要かもしれません」
篠原の心臓が一拍強く打った。
誤作動の影
深雪は端末の画面を操作し、赤く跳ね上がった波形を拡大した。 「――こちらが、導入初期に記録された久慈主任の清拭処置の波形です」
篠原の視線が吸い寄せられる。緑の安定したラインに、唐突に突き抜ける赤いピーク。 (……これが“誤差”とされた数値……)
深雪は淡々と続ける。 「機器の感度調整が完全に安定していなかった時期です。接触部位の不均一や電極の微細なズレ――その可能性は否定できません。ですので“誤作動の一例”として追記しました」
篠原はグラスを持ち上げるが、口に運ぶ前に手が止まった。 (誤作動……? そう言えば救われる。だが――)
網膜に焼き付いた昨夜の残像。センサーの冷たさ、拘束痕の疼き、そして自らが迎えた赤い跳ね上がり。 「……この振幅、確かに疼痛反応では説明できませんね」 委員長の声色で言葉を繋ぎながらも、研究者の目は別の結論を訴えていた。 (誤差にしては……整いすぎている。むしろ生理的反応の“兆し”だ)
深雪は画面を閉じ、静かに言葉を落とした。 「再評価が必要とお考えなら……委員長ご自身のデータを補足症例として記録することもできます」
言葉は穏やかだった。だが、その瞳は篠原から一度も離れなかった。
「……私の、データ……」
声が震えた。委員長としては冷静を装わねばならない。だが研究者としては、その言葉が強烈に心を掴んでいた。 (……もし自分で確かめられたら。この“誤差”は――真実に変わる)
篠原は応えず、ただ視線を波形から外せなかった。 赤い曲線は画面ではなく、自らの胸の奥で脈打っているように見えた。




