第50話 沈黙を破る声
委員長室・午前
画面の通話アイコンに指を置いたまま、篠原は深呼吸を繰り返していた。 (……押せば、後戻りはできない。でも――このままでは何も変わらない)
わずかな決意とともに指が動く。呼び出し音が三度鳴り、静寂を切り裂いた。
「――はい、深雪です」 受話口から聞こえる淡々とした声。その平静さに、篠原の喉がひりつく。
「……あの、報告書の件で。12件の症例報告、確認したい点があって」 努めて冷静を装った声を出す。
(追記の“久慈主任のデータ”には触れない。委員長としては、あくまで“12件の症例”だけの確認……表向きには)
「正式な場ではなく、少し直接お話を。……研究室で、改めて」
一瞬の間。だが深雪の声は変わらない。 「承知しました。午後一でお越しください」
通話が切れると同時に、篠原の肩が大きく沈んだ。 (……結局、私は足を運ぶことを選んだ。委員長として“12件の確認”のため。――けれど)
指先はまだ微かに震えていた。心の奥では、昨夜の痕跡と“追記”の波形が消えずに残っていたからだ。
委員長室・後半
通話を切った篠原は、しばらく椅子に身を沈めたまま動けなかった。 (……約束してしまった。午後一に研究室。――12件の症例報告の確認、それだけのはず)
立ち上がり、クローゼットを開く。濃紺のスーツを取り出し、鏡の前で合わせる。 胸元を整えたとき、布の下でわずかな違和感に息を詰めた。センサーを押し当てられた痕は、まだうっすらと赤く残っている。膝下にも同じ痕跡。 (……隠せる。見えなければ、ただの委員長)
スカートを穿き替え、ジャケットを羽織る。だが鏡の中の自分は、どう見ても「昨夜の続き」を引きずっていた。 「……12件の確認。それ以上でも以下でもない」 小声で繰り返す。言葉を口にすれば心が落ち着く気がした。
だが、頭の奥では赤く跳ね上がった波形が消えてくれない。 久慈主任の閾値突破、その曲線は網膜に焼き付き、まるで呼吸に合わせて鼓動しているかのようだった。
端末を鞄に入れる手が震え、思わずグラスに水を注ぎ、一息に飲み干す。冷たさで喉を潤しても、胸のざわめきは収まらなかった。 (……私は委員長。報告確認のために行く。それだけ。――それだけのはず)
――だが、研究者としての眼はまだ沈黙してくれない。
深く息を吐き、玄関の鍵を手に取る。 ドアノブに触れたとき、胸の奥がざわりと疼いた。 それでも足を止めず、篠原は白光の研究室へと続く廊下を歩み出した。




