第48話 誤差という仮面
深雪の研究室・翌朝
深雪は端末を閉じ、報告書ファイルを保存した。表題には《計測記録・第12件+追記》――一見、淡々とした安全性確認。だが実態は、相手の足場をずらすための仕掛けだった。 (“正規”に触れ、“誤差”を置いておく。――読む者は、必ずその隙間を覗き込む)
件名:《計測記録 第12件+追記》 本文: 「委員長へ。 これまでの12件の計測結果を整理し、追記として久慈主任の記録を添付いたします。 当該データについて、私は正規の反応と認識しております。 ただし導入初期に取得したものであり、機器の感度調整が完全に安定していなかった可能性も否定できません。 よって“誤差の可能性”を併記し、安全性確認の一環として追補しました。 特に閾値前後の波形に関しては再評価が必要と考えております。委員長のご意見をいただければ幸いです。」 ――宛先:篠原美沙子。
送信。短い電子音のあと、室内は再び静寂に沈む。 (……“誤差”と書けば安心する。けれど、その安心の奥で赤い跳ね上がりは、彼女をもう揺らし始めている)
深雪はカップに残ったコーヒーを口に含み、椅子にもたれて指先をだらりと落とした。 送ったのは十二件の正規記録と、導入初期に得た久慈の閾値突破。さらに――篠原自身が試みに走らせた簡易臨床の揺れ。どれも「誤差」と言い切れない乱れ方だ。 (種は蒔いた。確信はないわ。――でも、答えは向こうから来る)
画面の隅で送信履歴が点滅をやめる。深雪はモニターを伏せ、静かに息を吐いた。
委員長室・同刻
端末に「新規報告書」の通知が点った。 篠原が画面を開くと、十二件の正規データが整然と並び、その下で視線が止まった――追記:久慈主任の波形。
(……“導入初期の誤差の可能性あり”……?)
その一文に思わず息がほどける。誤差なら、あの異様な跳ね上がりも説明できる。胸の糸がゆるみかけ――すぐ、指が止まった。 冷却室の白い光、赤く跳ねた曲線、センサーが拾った閾値突破。現場で見た自分の目が、それを「誤差」と呼ぶのを拒む。
(私は――“誤差”に救われたいの? それとも、見たものを否定したいだけ?)
画面をスクロールする。数値、誤差、誤差、誤差……。 制度は誤差に救われ、研究者は誤差に裏切られる。――その狭間に立つ自分の呼吸だけが、妙に大きく響いた。
報告書を閉じても、胸の熱は収まらない。画面を伏せても、波形の残像は網膜に焼き付き、脈打つように静かに強まっていく。 (……委員長として、どう答えればいいのかしら。――それとも、誤差に踊らされているのは私自身?)




