第3話 呼び出し
慈主任の呼び出しに応じ、個室を出る。
廊下は妙に静まり返っていた。
夜の病院は、生き物の体内に似ている。
消毒液の匂い、規則正しい機械のうなり、カツンと響くヒールの音。
そのすべてが、どこかで脈打つ臓腑の鼓動のように思えた。
「……解剖台に横たわっているのは、誰だろうね」
独りごちた声は、白い壁に淡く反射して消える。
遠くで研修医の影が横切るのが見えた。
視線が一瞬こちらに向いた気がしたが、すぐに逸らされた。
まるで私の方が“検体”であるかのように。
口元がわずかに歪む。
それも悪くはない。観察する者とされる者、その境界は常に揺らいでいるのだから。
――執務室の前に着く。
ドアの向こうからは微かな紙をめくる音。
ノック。
「どうぞ」
低く落ち着いた声。久慈真理子だ。
ドアを開けると、書類の束を机に置きながら彼女がこちらを見上げた。
「深雪先生、来てくれて助かるわ」
「呼ばれた通りに来ただけです」
「さっきのカンファレンスで出た手術法の話、あなたはどう考えてる?」
いつもの手だ。自分で断言せず、私の見解を利用する。
それでも私はさらりと答える。
「単純です。ここを切れば済むこと。複雑に見えるのは、誰かが余計な臓器を並べているからでしょう」
久慈は小さく笑い、頷いた。
「やっぱりね」
その笑みにほんのわずか、自分で踏み切れない歯がゆさが混じっていた。
私はそれを観察しながらも、表には何も出さない。
「ところで――深雪先生。あの研究室、私が上に掛け合って取ったものよ。あなたが困らないようにと思って」
その研究室は、窓のない小部屋だった。
培養器と顕微鏡、冷却装置が詰め込まれ、簡易な解剖台まで備えられている。
さらに壁際にはソファと小さなテーブルが置かれ、コーヒーを淹れてくつろぐこともできた。
本格的なラボには遠く及ばない。だが研究と休息を同時にこなせる、いわば“特別な個室”だった。
「……承知しています。ありがたく思っています」
感謝は本心だ。研究に専念できる環境は、この病院では何より貴重なのだから。
けれど同時に、それは代償の上に成り立つもの。
彼女は私の知見を求め、私は応じる。
――だが、メスを振るうのは、私の知見だけだ。
執務室を後にしながら、私は思った。
あの研究室――窓のない小部屋は、私にとってただの作業場ではない。
私だけの臓腑であり、祭壇となる場所。
そこに戻れば、久慈の言葉も肩書きも、すべて外界の雑音に過ぎなくなる




