第40話 制度の余韻
篠原の指先が止まり、切れ長の瞳が端末の波形に釘付けになった。 「……知ってはいたけれど、これほどの反応とは」 声は抑えていたが、驚きの色を隠しきれない。
深雪は視線を逸らさず、淡々と答える。 「条件を整えただけです。主任は正確に応じてくださいました」
篠原は唇を結び、わずかに息を呑んだ。 「どうしたら、こんな数値になるのか……」 その言葉は研究者としての本音だった。
数秒の沈黙のあと、委員長の顔が戻る。 「……けれど、この記録は患者の臨床ではないですし、報告書には出せません」
深雪は淡い微笑を浮かべ、端末を閉じる。 「承知しています。公式に提出するのは十二件、それで十分です」
篠原は視線を伏せ、資料を抱き直した。 だがその瞳の奥には、なお数値の残像が揺らめいていた。
扉が閉じ、研究室に静寂が戻った。 深雪は端末を操作し、二つの波形を並べる。 ひとつは篠原の簡易計測――微細な揺らぎを残しながら、やがて平静へ戻る曲線。 もうひとつは久慈の導入直後の記録――閾値を突き抜け、赤く跳ね上がった鋭い軌跡。
「……患者の臨床ではない、か」 深雪は冷めたコーヒーを口に含み、淡い笑みを浮かべた。 (――制度の盾も揺れる。数値はすべてを暴き出す)
そのころ篠原は、長い廊下をゆっくりと歩いていた。 胸元にはまだセンサーの冷たい痕跡が残り、資料を抱える腕に力がこもる。 「臨床には含められない。それで正しい」――倫理委員長としてはそう結論づけた。
だが理性の奥底では、久慈の跳ね上がった波形が焼き付いて離れない。 あれは制度の枠を超えた数値。自らの計測では到底届かない、異質な臨界の証。 (……私は委員長として線を引いた。けれど、研究者としては理解してしまった)
廊下の光がグレーのスーツを照らすたび、篠原の瞳の奥にその残像がかすかに揺らいでいた。
深雪は静かにモニターを閉じ、独り言のように呟いた。 「――制度は報告を縛る。でも、数値は隠せない」




