第23話 倫理の壁
朝 ― カフェにて
コーヒーを口にした久慈が、静かに笑みを浮かべた。 「……院長から聞いたわ。助教授への昇格、決まりそうだわ」
深雪は一瞬だけ目を細め、淡々と答える。 「主任にとっても大きな節目ですね。おめでとうございます」
久慈は軽く頷き、視線を外した。 「その分、責任も増える。今日の倫理委員会もね。議題に“生体反応計測装置”が上がっている」
「申請は私からです。高精度の神経応答記録は臨床にも意味があります」 「……臨床の範囲を少し超えて見えるところもあるけれど」 「未来のためには、今少しだけ踏み込む必要があるのです」
久慈はカップを傾け、表情を隠すように微笑んだ。 「稟議書は回しておいたわ。通るかどうかは篠原先生次第」
深雪は微笑を崩さず、カップの縁を指で軽く叩いた。 「……時間は待ってくれません」
午後 ― 倫理委員会
会議室の空気は硬質だった。長机の中央に端末が並び、壁際には病院幹部と専門委員。 委員長・篠原美沙子は、グレーのタイトスーツの上から資料を胸に抱え、姿勢を正す。切れ長の目は冷たく、声は必要な音だけを置く。
「次の議題。生体反応計測装置の導入申請について」 篠原は資料をめくり、正面の久慈に視線を据えた。 「久慈主任、この設定は高感度すぎます。臨床に限定するなら、ここまでの解像度は不要では?」
久慈は間を置かずに答える。 「最新症例に対応するには不可欠です。術中・術後の神経応答、痛みの管理や麻酔深度の把握に有用です。私の責任で稟議を回しています」
「臨床の範囲を逸脱しない保証は?」 「プロトコルは倫理規程に準拠。ログは部内で共有し、外部提供時は個人情報を完全に遮断します」
篠原は視線だけで数名の委員を回し、再び久慈へ戻した。 「……病院としては将来性を無視できない。一方で“過剰な精度”は乱用の余地も生む」
深雪は背後で黙したまま、ふたりのやりとりを見ていた。 (――篠原美沙子。かつて痛覚の研究に関わっていた、と聞く) グレーの布地は豊満な線を隠しきれず、抑制された声が響くたび、皮膚の下で起こる微小な収縮と温度変化を想像してしまう。 いまは装置の話。数値がすべて――そのはずなのに、視線がわずかに身体の反応へ引き寄せられている自分を、深雪は静かに自覚した。
篠原は端末に短く指を走らせ、結論を置く。 「本件は継続審議。臨床適用範囲の明確化と、感度設定の根拠資料を追加で提出してください。条件が整えば、条件付き承認を検討します」
「承知しました」 久慈の声は揺れない。委員会の硬い空気の中で、盾の役目がどこにあるかを理解している声だった。
会議が散り始め、椅子の脚が床を擦る音が重なる。 深雪は誰にも聞こえないほど低く息を吐く。数値の向こう側に、皮膚の温度と筋の微細な収縮がある。 ――時間は待たない。次へ進めばいい。




