第22話 院長室にて
重厚なドアをノックすると、院長の低い声が返った。 「入りたまえ」
革張りの椅子に腰かけた院長は、書類を閉じて久慈を見据える。 「君は、この界隈でも五本の指に入る医師だよ」 落ち着いた声に、久慈の胸が熱を帯びる。父の背中が脳裏に浮かんだ。副院長まで上り詰めながら、院長の椅子だけは掴めなかった尊敬すべき父。 ――私は越える。必ず。
院長は軽く笑みを浮かべる。 「助教授の件も、ほぼ決まりだ。この年齢での昇格は異例だよ」 久慈は深く頷いた。父の未遂を越える確かな実感が、胸に膨らむ。
「私たちの世代は皆、院長の椅子を夢見て競ったものだ。君の父もそうだった」 院長の声に、若き日の父の姿が重なる。誠実で、患者に慕われ、同僚から信頼された。だが最後の椅子だけは手にできなかった。 ――私は父を越える。必ず院長に至る。
だが次に告げられた言葉が、心に別の影を落とす。 「ただ、深雪は別格だ。主任医師の打診すら断った。出世には興味がないのだろう。だが病院にとって、彼女を失うことは大きな損失になる」
院長の視線は鋭さを帯びる。 「だから頼む――彼女を繋ぎ止めてほしい。研究には金も設備も惜しまない。今までどおり、君に任せる」
久慈は短く答えた。 「……承知しました」
その返答の裏で、心は静かに燃えていた。 ――深雪は別格。出世では縛れない。だが、院長の座に至るためなら、彼女の才を利用することが最短の道だ。
椅子を立ち上がろうとしたとき、院長が低く釘を刺した。 「ただし、深入りはするな。彼女は時に、常識の外側で動く」
久慈は静かに一礼した。 表情は崩さず、ただ胸の奥で決意を固める。父を越えるために。必ず。
*
その日の夕刻、病院の片隅で深雪は短い噂を耳にした。 ――久慈主任、助教授に昇格が決まったらしい。
深雪は小さく笑みを浮かべた。 (助教授……立場が上がれば、病院の資金や設備にアクセスできる範囲も広がる。私にとっては、利用価値が増しただけ)
端末を閉じ、研究室の保存槽に視線をやる。 とぷり、と液面が揺れ、内部で蠢く影がかすかに反応した。
(主任がどう上がろうと関係ない。私の関心はただ一つ――快楽という神経回路の解剖。それを成し遂げるためなら、院長の座すら駒にできる)
深雪の指先が冷たいガラスをなぞる。 瞳に浮かぶのは、出世の階段ではなく、未知の回路へと続く暗い光だった。




