第142話 偽りのキャリブレーションと抵抗ゼロの解像度
キュィィィン……という高周波の起動音が落ち着き、特別研究室は再び無機質な静寂に包まれた。
深雪はメインコンソールの前に立ち、正面に並んだ二つの大型モニターへ静かに視線を向ける。
左側のモニターに表示されているのは、生体反応計測装置『Nexus-X 09』。
漆黒の背景には、波形を描画するための無機質なグリッド線だけが広がっている。深雪は手元のキーボードを淡々と叩き、現在の被験体の状態に合わせた初期パラメータを打ち込んだ。
画面の右下に、緑色の細いフォントで文字が点灯する。
[ 伝導経路:145 μV/ms ]
[ 側坐核:1,200 μV ]
深雪は一切の感情を交えず、これらの数値を計測のベースライン(ゼロ地点)に設定し、Enterキーを押す。ピッ、という短い電子音が、測定の準備完了を告げた。
続いて、右側のモニター――『術中モニタリングシステム・Ver.X』へ視線を移す。
青白い骨盤と脳のワイヤーフレームの横に、二本の縦型バーグラフが表示されている。
[ DA分泌量:0.00 ]
[ β-EP(β-エンドルフィン)分泌量:0.00 ]
それぞれのゲージの中央付近には、【一般成人女性の最大閾値】を示す赤い横線が引かれている。
二つのモニターのセットアップを終え、深雪は振り返った。
部屋の中央に鎮座する、艶消しホワイトの『スマート空圧式処置チェア』。限界まで開脚され、骨盤を高く持ち上げられた測定用ポジションで完璧にロックされている篠原美沙子は、必死に目を閉じ、微かに息を詰めていた。
「お待たせしました、委員長。システムのキャリブレーションは完了です」
深雪はコンソール上の銀色の滅菌ケースを開き、まずは神経伝達の基準値を測るための、一般的な『AS-09パッチ(毒なし)』を静かに手に取った。
深雪はパッチを手に、処置チェアへ歩み寄った。
「まずは脊髄の伝達状態をモニタリングするために、首筋にパッチを貼りますね」
その淡々とした宣告が耳に届いた瞬間。
これから冷たい異物が自分の肌に触れるという予感に、篠原の膣の奥がきゅっと無意識に収縮した。
骨盤から太ももにかけてを空圧パッドで完璧にロックされているため、彼女はその収縮から逃れるように腰をよじることすらできない。行き場を失った力は逃げ道を求め、限界まで開脚させられている内腿の筋肉をプルプルと微かに痙攣させた。さらに、拘束カフから唯一解放されている両足の指先が、下腹部の収縮に連動してパクパクと不規則な開閉を繰り返してしまう。
肉体はすでに、抗いがたい期待と恐怖で出来上がっている。それでも篠原は、少し強張った顔で微かな声の震えを必死に殺し、正面を見据えた。
「ええ。……頼むわ」
あくまで治療を待つ立派な患者としての、気丈な返答だった。
深雪は視界の端で震える内腿と足の指先を捉えながらも、一切の表情を変えることなく篠原の背後へと回り込み、うなじの素肌にひんやりとしたパッチを貼り付けた。
すぐさまメインコンソールへと戻り、手元のタブレットを操作してパッチと『Nexus-X 09』を同期させる。
「それでは、計測のための微弱な電流を流します。一般的な神経検査のレベルですので、本来なら皮膚抵抗で消散し、何も感じないはずの出力です」
カチ、と。
深雪の細い指先がコンソールのダイヤルを回し、最小値の電流をパッチへと送り込んだ。
首筋に貼られたパッチから、極めて微細な電気信号が侵入する。
それはピリッとした刺激ではなく、ツーッと脊髄を滑り降りていくような、どこか奇妙に甘い感覚だった。
(あっ……。これ、は……)
微弱な信号が腰髄に達した瞬間、篠原の脳裏に、かつての治験で味わわされた圧倒的な熱の記憶がふわりと蘇る。大袈裟なフラッシュバックではない。ただ、「ああ、これからまたあれが始まるのだ」という生々しい予感が、彼女の足の指先を勝手にきゅっと丸めさせた。
篠原は微かに吐息を漏らしつつも、奥歯を噛み締めて気丈に耐えている。
一方、メインコンソールに立つ深雪の視線は、漆黒のモニターに描画され始めた一本の波形に注がれていた。
一般の検査レベルの微弱電流。通常であればゼロ付近を這うだけの入力だ。しかし画面上の白いグラフは、すでに篠原の異常なベースラインである1,200 μVをしっかりと上回る帯域で推移していた。
波形は決して暴れることなく、不気味なほど滑らかに横へ流れる『凪』を描いている。
だが、そのフラットな線の途中で、時折上に向かって「ピコッ、ピコッ」と不規則に跳ね上がるような細かなスパイクが混じっていた。
(……ええ。微電流でも確実に基準値を超えて反応している。そして何より、理性の抵抗を示す下振れが一切ない)
深雪は、その時折上へ跳ねる波形を冷ややかに見つめる。
(むしろ、この肥大化した報酬系は、入力される信号に対して『まだ足りない』『もっとよこせ』と、自ら上へ上へと要求しているようね)
深雪は現在の数値をベースデータとして保存すると、再び処置チェアへと向き直った。
「ベースラインの取得、完了しました。……それでは、本測定に向けてパッチを差し替えます」
「差し替え……?」
「ええ。ここからの絶対上限の測定では、神経伝達におけるわずかな電気抵抗がデータの誤差を生みます。抵抗値を下げるための『高伝導ゲル』を塗布した専用パッチを使用します」
「高伝導ゲル……?」
元・痛覚の脳神経研究者である篠原は、その単語の持つ意味を瞬時に理解し、思わずゴクリと乾いた喉を鳴らした。ただでさえ過敏になっている現状で、これ以上神経の抵抗値を下げるというのか。
その不安を察知した深雪は、極めてフラットな、担当医としての完璧な微笑みを浮かべた。
「ご安心ください、委員長。入力する電圧のレベルは、先ほどのテストと同じ『微弱なまま』です。出力は安全圏に保ちつつ、神経抵抗によるデータの減衰だけを取り除く。……これにより、限界値測定の正確性が完全に担保されます」
電圧は上げない。あくまで正確な医療測定のため。
そう正論を突きつけられてしまえば、篠原に反論する余地はない。
「……わかったわ。お願い」
気丈に頷く彼女のうなじから通常のパッチを剥がし、深雪は『T-ペプチドα』が密かに塗布された新たなパッチをペタリと貼り付けた。
カチリ、と。再び微弱なテスト電流が流される。
最初は、先ほどと同じ微細な信号だった。
しかし数秒後。パッチの成分が皮膚から浸透した直後――不意に、感覚の『質』が劇的に変わった。
「――っ!?」
電圧(強さ)が上がったわけではない。変わったのは、異常な『速度』と『解像度』だった。
今まで神経という道をツーッと流れてきていた信号から、突如として一切の摩擦(抵抗)が消滅したのだ。まるで真空のチューブの中を落下するように、タイムラグがゼロになった微弱電流が、脳幹へと瞬時に直撃する。
さらに、ノイズという濁りが消え去ったことで、薄い曇りガラス越しに触れられていたような感覚が、いきなりガラスを叩き割られ、細胞の一つ一つを直接撫で回されているかのような、恐ろしいほどのクリアさとなって跳ね上がった。
「あ……っ、ぁっ……!?」
ただの微弱な電流。それなのに、不純物ゼロで突き刺さる圧倒的な純度に、篠原の1.2倍の脳は激しく撹乱され、完璧にロックされた内腿の筋肉を小刻みに震わせ続けた。




