第139話 理性の防波堤と滲み出す熱
治験当日火曜日の午後十八時。
静まり返った倫理委員長室で、篠原美沙子はデスクのPCモニターを静かに行き来するカーソルを見つめていた。
画面に表示されたスケジュール管理ソフト。明日の水曜日の欄には、『有給休暇』の文字が入力されている。
今日これから行われる治験は、自身の異常な脳の『絶対上限』を測り切るという過酷なものだ。前回、途中で気を失ってしまったことを考えれば、検査後の肉体的・精神的な疲労は計り知れない。明日の休暇は、今後の委員長としての業務に支障を来さないために取得した、極めて合理的な判断だった。
数日前、深雪との間で「火曜日の十九時」という治験日程が確定して以降、篠原の精神は驚くほど落ち着きを取り戻していた。
もちろん、脳の奥底では相変わらず常人の1.2倍という知覚のノイズが微かに燻っている。だが、「これでついに異常の数値化が完了し、具体的な治療法が見つかる」という確かな希望が、彼女に倫理委員長としての確固たる理性を取り戻させていた。
治療への期待が強固な防波堤となり、肉体の内側から湧き上がる本能的なノイズをしっかりと押し返しているのだ。
――コチ、コチ。
静寂に包まれた室内に、壁掛け時計の秒針が時を刻む音が響く。
時刻は十八時を回ったところ。約束の十九時まで、あと一時間。
時計の規則正しい音に意識が向いた瞬間、1.2倍に高密度化した知覚がそのリズムを過敏に拾い上げ、下腹部にチリッとした微かな疼きが走った。
絶対上限を測り切る。それはつまり、前回のシミュレーションで脳が限界を迎えた『あの負荷』の、さらに先へと踏み込むことを意味している。恐怖にも似た不安が、胸の奥をよぎる。
だが、篠原はデスクの下で両脚を上品に揃えると、スッと背筋を伸ばした。
浅く、ゆっくりと息を吐き出し、微かな不安と下腹部のノイズを冷徹な意志でねじ伏せる。
(大丈夫。これは私の異常を治すための、正当な医療行為よ)
私の絶対上限さえ正確なデータとして弾き出せれば、あの優秀な深雪さんなら、必ずこの忌まわしいノイズを消し去る治療法を確立してくれるはずだ。
篠原は凛とした表情で立ち上がると、白衣のシワを丁寧に伸ばした。
自分はあくまで、一人の患者として検査に臨むのだ。
倫理委員長としての矜持を胸に、彼女は十九時の約束へ向けて、静かに心を整えた。
* * *
静まり返った医局の廊下に、リノリウムの床を打つヒールの規則正しい音が響く。
コツ、コツ、という冷静な足音を響かせながら、篠原は深雪の待つ特別研究室へと歩みを進めていた。
歩きながら、白衣の下の身体へと静かに意識を向ける。
幸いなことに、今日の下着は下腹部の熱に当てられて湿るようなこともない。数日前の自分を支配しそうになっていた獣のような渇望は、今は息を潜めている。
だが、完全に消え去ったわけではない。
歩幅を広げるたび、1.2倍に高密度化した知覚が、ストッキングの擦れる僅かな感触さえも過敏に拾い上げる。その度に下腹部の奥で、チリッとした熱を伴う『ノイズの揺らぎ』が生じた。
篠原は下腹にぐっと力を込め、その不快で甘い揺らぎを理性の底へと重く抑え込んだ。
「お疲れ様です、委員長」
「ええ、お疲れ様」
すれ違う若手医師や看護師たちが、次々と道を譲り、恭しく頭を下げていく。篠原は内側に燻る熱を悟られまいと、その一人一人に威厳と余裕を持った笑みで小さく頷き返した。
(そう。私は倫理委員長。尊敬を集める立場であり、理性ある大人の女よ)
今から向かうのは、決して快楽に身を委ねるための場所などではない。自身の異常な神経伝達を数値化し、治療法を確立するための、極めて正当な医療検査だ。
周囲から向けられる敬意の眼差しを浴びるたびに、その矜持が彼女の理性の輪郭をさらに強固なものにしていく。
歩みを止め、篠原は左腕の腕時計を一瞥した。
時刻は十八時五十五分。約束の五分前。時間管理も完璧だ。
やがて、廊下の最奥に位置する重厚な扉の前に辿り着く。
『特別研究室』と刻まれた無機質なプレートを見上げ、篠原は短く、静かに息を吐いた。
もう一度、ノイズの揺らぎを完全に押し殺していることを確認し――彼女は迷いのない手つきで、そのドアを二度、ノックした。
* * *
「――どうぞ、お入りください」
扉の奥から響く、深雪の透き通るような声。
篠原は小さく息を吸い込み、特別研究室の重厚なドアを開けた。
「お待ちしておりました、委員長」
「ええ。今夜はよろしくお願いするわ」
白衣姿の深雪は、あくまで担当医としての冷徹な表情で篠原を迎え入れた。篠原もまた、患者としての威厳と理性を保ったまま、静かに頷き返す。
室内の空気はひんやりと冷たく、無機質な電子音が微かに鳴り響いていた。
「では、まずはそちらのパーテーションの裏で着替えをお願いします。衣服と下着はすべて外し、いつもの手術着を着用してください」
「わかったわ」
篠原は促されるままパーテーションの裏へ回り、着慣れたスーツと白衣、そして下着を丁寧に脱いでいく。代わりに袖を通したのは、病院で一般的に使用される薄手の手術着だ。背中で紐を結ぶ簡素な作りで、布地の下は完全に素肌である。
やがて、パーテーションから姿を現した篠原に、深雪は微かに目を細めた。
無機質で簡素な手術着だからこそ、その下に隠された篠原の豊満な肉感と、匂い立つような大人の艶やかさが、かえって生々しく際立っている。歩くたびに薄い布地が張り付き、豊かな胸元の起伏や、滑らかな腰回りのラインが妖しく揺れた。
(本人は完璧に抑え込んでいるつもりでしょうけど……滲み出ているわね)
深雪は、純粋な研究者としての冷徹な眼差しを柔らかな微笑みの奥に隠し通し、手元のタブレットへ視線を落として淡々と問診を始めた。
「血圧や心拍数のベースラインは、事前データ通りですね。本日の体調はいかがですか。事前の指示通り、絶食は守られていますね?」
「ええ。口にしたのは水だけよ。体調も……特に問題はないわね」
「ノイズの自覚症状は?」
「数日前よりは落ち着いているわ。……あなたが今日、この検査で治療の糸口を見つけてくれると思えばね」
強固な理性を盾にして、篠原は毅然と答える。
深雪はタブレットにデータを打ち込みながら、「ええ、必ず有益なデータ(結果)を導き出してみせましょう」と、どこか底知れぬ響きを帯びた声で返した。
「それでは、処置に移ります。あちらへ」
深雪が促した視線の先。部屋の中央に目を向けた篠原は、思わず歩みを止めた。
「……深雪さん。いつものあの拘束台は?」
「今日は使用しません。今回はそちらの専用チェアで行います」
篠原の視線の先には、見慣れた拘束用の診察台はなかった。
代わりに鎮座していたのは、艶消しホワイトで塗装された、巨大で異様なフォルムの椅子だった。歯科用の診察台や、婦人科の内診台にも似ているが、随所に空圧式のシリンダーや分厚いパッドが備え付けられており、どう見ても一般的な医療器具ではない。
「……これは、一体?」
1.2倍の知覚が、その無機質な機材から発せられる異様な威圧感を察知し、篠原の背筋に微かな悪寒を走らせた。
「本日は『絶対上限』を測定します。極限の負荷による激しい痙攣で転落するのを防ぐのはもちろんですが、何より、センサーの正確な挿入角度と測定位置を維持するために導入した最新型です」
深雪は機材の表面を優しく撫でながら、ふふっと軽い笑みを浮かべた。
「体へのフィット感が非常に高くて、患者からの評価も上々なんですよ」
「……なるほど。そういうことなら、仕方ないわね」
篠原は微かな不安を理性の底に押し込め、自らその『完璧な檻』へと歩み寄る。
これから自分の身に何が起こるのか、まだ本当の意味では理解していないまま。




