第137話 敷かれたレールと渇望
進藤が退室し、ドアが静かに閉まる。
特別研究室に再び、無機質な空調の音だけが戻ってきた。
深雪はソファから立ち上がると、先ほど進藤が熱心に見つめていたサブモニター――『症例MS』の異常な波形データの前へと歩み寄った。
「……ええ。本当に見事な推論だったわ」
誰に聞かせるでもなく、静かな称賛が口をついて出る。
私が意図的に残しておいた特注プローブと、異常な生体データ。それらのピースから、気絶を回避するアプローチや、既存の薬では不可能という結論へ淀みなく辿り着いた。未知の劇薬という発想に至る薬学の知見も、純粋に研究者として高く評価できるものだった。
(あの見識の深さ……。彼女なら当然、この『症例MS』が単なる仮想データなどではなく、実在する人間の数値だという可能性にも辿り着くでしょうね)
深雪はマウスを操作し、モニターの画面を静かに閉じた。
用意された情報を読み解いた進藤が、この先どう動くのか。それは純粋な観察対象として、とても興味深い。
ふと、深雪の脳裏に、先ほどまで向かい合っていた進藤の姿が浮かんだ。
(それにしても……今日も、とても肌が綺麗な女だったわね)
先日の会食でどれだけ酒を煽っても顔色一つ変えなかった、あの透き通るような肌。
(……被験体としても、非常に面白い素材かもしれないわね)
深雪の静かな眼差しが、微かな熱を帯びる。だが、それはまだ先の話だ。
今の深雪には、来週火曜日に迫った本命の臨床がある。
限界を迎えつつある篠原委員長。彼女の脳を絶対上限のその先へと導くための準備。進藤も言及した『既存ではない劇薬』の最終チューニングだ。
深雪は白衣の袖を静かにまくり直すと、冷徹な医師の顔に戻り、部屋の最奥にある厳重なロックの掛かった扉へと歩みを進めた。
*
同日、夜。
都内の高層マンションの一室。玄関のドアを閉めた進藤玲は、ヒールを脱ぎ捨てると、小さく息を吐きながら薄暗いリビングへと足を踏み入れた。
洗面所に向かい、体にフィットしたジャケットを脱ぐ。鏡の前に立った彼女の顔からは、一日中貼り付けていた華やかで隙のない『営業スマイル』が、まるで水に溶けるようにスッと消え去っていた。
鏡越しに見つめる漆黒の瞳。それは、ボストンの研究所で退屈な倫理ルールに飼い殺されていた頃の、冷たく飢えた脳科学者の目だった。
「……ふふっ」
静かな室内に、抑えきれない笑い声が漏れる。
女医乃深雪。あの完璧な天才外科医は、進藤の疑念に気づいた上で、あえて極上の情報を目の前に並べてみせたのだ。
見えやすい位置に置かれた特注のプローブと、わざとらしく開かれていたサブモニター。深雪は意図的に話を誘導し、私の知見を試してきたに違いない。
(伝導容量と増幅率が常人の1.2倍にまで高密度化した『症例MS』の波形データ……。あれは仮想シミュレーションなんかじゃない。実在する人間の生データである可能性が極めて高いわね)
一体どうして人間の脳がそんな風に書き換わっているのか、その理由は全く分からない。だが、確かに存在しているのだろう。
そして、その事実を前提にすれば、すべてのピースが綺麗に繋がる。
(あの規格外の脳の絶対上限を、気絶させずに測り切る。そのための最適なデバイスこそが……あの過剰なアクチュエーターを備えた特注プローブというわけね)
進藤は洗面台に手をつき、ゾクゾクとするような知的な高揚感に身を委ねた。
表向きは美しい外科医が、裏では真っ当な倫理を完全に無視し、一人の人間の絶対上限を測ろうとしている。
そして、最後に深雪が放ったあの圧倒的な威圧感と、厳重にロックされた『奥の扉』。
あの中には一体何があるのか。あの異常な限界値をさらに引き出すための、見たこともない最新鋭の機材か。それとも、既存の医療機器や薬学とは全く『別の何か』なのか……。想像もつかない謎に、研究者としての好奇心が強く刺激される。
「……ええ。次に会った時は、直接確認させてもらおうかしら」
進藤は鏡の中の自分に向かって、さっぱりとした、しかし熱を帯びた挑戦的な笑みを向けた。
「その時は、あの奥の扉の先もね」
これで互いの思考が整理され、次のフェーズへの準備が完璧に整いましたね。




