第136話 仮想の症例と倫理の境界線
研究室に落ちた一瞬の沈黙の中、進藤は自身の導き出した推論を、頭の中で冷静に精査していた。
あの異常な脳の「絶対上限」を測るためには、外部から極限まで電気信号の負荷を入力し続ける必要がある。しかし、一般医療のように首や脊髄の神経から直接アプローチした場合、致命的な問題が生じる。
入力する電圧の負荷を上げれば、脳はそれを「激痛」として処理し、防衛本能を働かせて強制シャットダウン(気絶)を引き起こしてしまうのだ。これでは、上限に達する前にブレーカーが落ちてしまい測定にならない。
では、気絶させずに限界まで負荷を送り込むにはどうすればいいか。答えは、入力する信号を脳に「痛み」として認識させないことだ。
人体において、極限の負荷を入力しても脳がシャットダウンを拒み、むしろ積極的に許容しようとする唯一のルートがある。それが、膣内から脊髄を経由し、脳へとダイレクトに繋がる経路だった。
膣内部からの電気刺激であれば、脳はそれをダメージではなく「快楽」として処理する。このバイパスを使えば、脳のセーフティをすり抜け、限界値まで信号を流し込み続けることができる。
だからこそ、内部から直接信号を送り込むには、多点センサーが組み込まれたあの特注のプローブが――最適か……。
「そうね。全体的に的確な推論ね」
深雪は手元のタブレットを置き、薄く微笑んだ。
「特に、さっきの抗てんかん薬を使った『抑制』のアプローチ。薬学の知見も高くて、中々面白い視点だったわ」
「……恐れ入ります」
「でも、あなたが最初に指摘した通り、これはあくまで仮想のシミュレーション。たまの頭の体操よ」
深雪はクスリと笑い、言葉を継いだ。
「まあ、実際にそんな症例の患者がいたとしても……あの多点センサーを使った膣内からのアプローチなんて、倫理的にも厳しいわね」
深雪のその言葉に、進藤はほんの一瞬だけ目を丸くし――やがて、口元に完璧で華やかな『営業スマイル』を浮かべた。
「ふふっ……流石の女医乃先生でも、やはり『倫理』には勝てませんか」
「ええ、もちろんよ。私たちは真っ当な医療従事者だもの」
深雪は表情を変えることなく、静かな瞳のまま淡々と応じた。
その言葉がどこまで本心なのか。彼女たちが本当に『倫理』という言葉に縛られているのか、それともとうの昔にそんなものは外れきっているのか。
互いの真意は定かではないまま、進藤はただ完璧な笑顔を貼り付けて、感情の読めない深雪を静かに見つめていた。
微かな空調の音だけが流れていた研究室に、ふと、深雪の小さく息を吐く音が落ちた。
「……あら、もうこんな時間ね。随分と長居させてしまったわ」
深雪は壁の時計を一瞥すると、スッと日常のトーンに戻り、手元のタブレットを無造作にデスクに置いた。
進藤もまた、その切り替えに合わせるように完璧な営業スマイルを取り戻し、ソファから立ち上がる。
「いえいえ。私も久々に、とても良い頭の体操ができました」
白衣を脱いでハンガーに掛ける深雪と、ジャケットを羽織る進藤。
ヒリヒリとした探り合いの空気は消え、そこにはただの『医師と医療メーカーの営業』の帰り支度の風景があった。
「それにしても進藤さん、薬学的なアプローチにも随分と強そうね」
「ええ、まあ。先ほどの仮想症例で本当に脳のショートを防ぐなら、既存の抑制薬なんかでは絶対に不可能ですから」
進藤はジャケットの襟を正しながら、少し自嘲気味に肩をすくめた。
「もし本当にやるなら、深海の過酷な環境で生きるバクテリアの酵素とか、ウイルスを使って細胞にノイズを強制処理させるか、あるいは……化学合成では作れないような『天然の劇薬』でも見つけない限り、厳しいですよね」
「……」
「実は私、ボストンにいた頃はそういう常識外れなアプローチも研究していたんです。でも、ああいうのって日陰の分野だから予算は全然つかないし……何より、意外と倫理委員会がうるさくて。嫌気が差してやめちゃいました」
そう言って苦笑する進藤に、深雪は背を向けたまま、ピタリと動きを止めた。
(……天然の、劇薬)
それは、今まさにこの研究室の奥底で、深雪が解析を終えようとしている『触手毒』そのものだった。
「……劇薬、ね」
深雪は誰に聞かせるでもなくそう呟くと、進藤には見えない角度で、感情の読めない静かな瞳のまま、クスリと薄く笑った。
「そう。それは残念だったわね」
「まあ、ボストン時代はそんな感じです。……どうです? 少しは私を、雇いたくなりましたか?」
「……ふふっ」
進藤は完璧な営業スマイルを向けたまま、ふと視線を横に滑らせた。
「ところで、先生」
「何?」
「あそこの奥の扉……何があるんですか?」
進藤の指先が、研究室の最奥にある厳重なロックの掛かった扉を捉えていた。
その瞬間だった。
深雪の顔から、スッと表情が抜け落ちた。
今まで見せていたミステリアスな余裕や、知的な微笑みではない。まるで深海のように冷たく、一切の光を反射しない底知れない瞳。ただ静かに見下ろすようなその圧倒的な異質さに、流石の進藤も背筋に冷たいものを感じ、本能的に肩をビクッと震わせた。
「……入ってみる?」
ひどく静かな声が、研究室に響く。
「――っ」
進藤は一瞬だけ息を呑み、すぐに貼り付けたような営業スマイルを取り戻した。
「そうですね……。また今度、とびきり面白い機器の案件を持ってきたときにでも、ゆっくり見学させてください」
「ええ。お待ちしているわ」
深雪はいつもの静かな微笑みに戻っていた。
「それでは、本日はありがとうございました。失礼いたします」
進藤は深く一礼すると、足早に研究室を後にした。
閉まったドア越しに、深雪は一人、奥の扉を見つめて静かに目を細めていた。




