第135話 プロテクトの限界と絶対上限
「……あんな詳細なハードウェアの数値データとして表に出てくること自体が、極めて少ないですね」
進藤の静かな指摘が、微かな空調の音だけが響く室内に溶けていく。
深雪は手元のコーヒーカップをことりとソーサーに置くと、ソファの背もたれに深く身を預け、面白そうに目を細めた。
「そうね。大抵の医者は『ストレス性の神経障害』とでも診断して、適当な抗不安薬を出して終わりでしょうね」
「ええ。ですが、女医乃先生はあの『症例MS』を精密に数値化し、ハードウェアの高密度化という結論を導き出している。……そこで、純粋な疑問なのですが」
進藤は営業スマイルを完全に消し去り、研究者としての冷たく真摯な瞳で深雪を見据えた。
「あの状態での生存は、可能なんですか?」
「……あら。一般論だと、どう見える?」
「……常時1.2倍の伝導容量と増幅率。一般論で言えば、あの状態での生存自体は可能でしょう。ですが、もし脳が何らかのバランスでこの異常な『開花』を許容し、ギリギリ成り立っていたとしても……あの患者の日常には、かなりの深刻な症状が出ているはずです」
淡々と告げる進藤の瞳には、一切の感情が混じっていなかった。ただ純粋に、与えられた数値を元に最も論理的な解を導き出そうとする「研究者」の顔だった。
「エラーにしては辻褄が合いすぎていて、あまりに類まれな美しいデータだと思いますが……女医乃先生が研究用に構築された、何らかの仮想シミュレーションデータですよね?」
「……じゃあ、仮に、の話だけれど」
深雪はコーヒーカップの縁を指先でなぞりながら、少しだけ声を潜める。
「もしあのデータが現実の人間のもので、今もギリギリのバランスで生きているとしたら……元・脳科学者であるあなたの見識なら、治療のアプローチは可能だと思うかしら?」
「……そうですね」
進藤は少し考える素振りを見せた後、淡々と答えた。
「まず、外科的アプローチは不可能です。これだけ複雑なネットワークに直接メスを入れれば、患者の精神や基本機能ごと完全に破壊してしまいます。かといって、ナノマシンで脳の回路を物理的に弄るようなSF映画みたいな手法も、当然現実的ではない」
進藤はそこで言葉を区切り、真っ直ぐに深雪を見返した。
「消去法になりますが。現実的なラインでアプローチするとすれば、薬物治療でしょうか。既存の薬で考えるなら、大きく分けて二つのケースが想定できます」
「二つ?」
「ええ。一つ目は、受容体そのものを『プロテクト(遮断)』する方法。強力なドーパミン拮抗薬などで、異常に肥大化した側坐核に物理的な蓋をするアプローチです」
進藤はテーブルの上で、両手を使って壁を作るような仕草をした。
「ですが、限界があります。これほど常軌を逸した増幅に対して、既存の薬で無理やり蓋をしようとすれば、致死量スレスレの投与が必要になる。結果として重度の鎮静を引き起こし、患者は思考力も感情も失う。ただ息をしているだけの廃人になるでしょうね」
「……」
「二つ目は、神経伝達の経路そのものを『抑制』する方法です。強力な抗てんかん薬や中枢神経抑制薬を使って、脳内の電気信号の暴走を強制的にトーンダウンさせる。ですが……」
進藤は、自らの推論を切り捨てるように小さく首を振った。
「これも現実的じゃない。異常を起こしている配線だけをピンポイントで抑え込む都合の良い薬なんてありませんから。この巨大なノイズを消せるほどの量を投与すれば、間違いなく呼吸中枢などの生命維持に関わる機能まで停止してしまう」
進藤はゆっくりと手を下ろし、結論を口にした。
「受容体をプロテクトするのも、経路を抑制するのも、今の医学の延長線上では不可能です。どちらのアプローチも、この異常なデータの持ち主を『壊す』だけで、治療にはなりません」
「ええ。同感よ」
「それに――」
深雪の静かな同意を受け、進藤はさらに深い段階へと踏み込んだ。
「薬の種類以前に、根本的な問題があります。仮にピンポイントでノイズだけを吸い上げるような都合の良い薬があったとしても、このデータの『上限』が分からない以上、適量が割り出せないんです」
「……」
「だから、もし治療プロセスを組むとすれば、どんな薬を使うにせよ、まずは患者の脳を極限まで駆動させて、この変異がもたらす絶対上限……言わば、脳の『本当の能力』を正確に測り切るステップが不可欠になります」
「その通りね。では、どうやって測る?」
深雪の試すような問いに、進藤は当然の医学的見地から答えた。
「それが一番厄介です。限界値を見極めようとして単純に入力する負荷を上げれば、脳は防衛本能を働かせ、強制シャットダウン(気絶)してしまう。かといって、ブレーカーを落とさずに限界値まで膨大なデータを送り込める経路なんて――」
言いかけて、進藤の言葉がふっと止まった。
(脳の防衛本能をすり抜け、極限の信号を許容する特権的なバイパス。……生殖器から脊髄を経由して、直接脳へ繋がるルート?)
視線が宙を泳ぐ。
脳裏に、先ほど部屋の奥のガラス棚越しに見た光景がフラッシュバックする。
ベース形状は見慣れた『骨盤内神経の測定用プローブ』。だが、そこに組み込まれていたのは、不必要とも思えるほどの過剰なアクチュエーターなどの増設パーツだった。
一般の医療で、一体何のためにこんな特注を――そう疑問に思った己の記憶と、今自らの口で語った『ブレーカーを落とさずにデータを送り込む経路』という言葉が、不気味なほど滑らかに一つの線で繋がる。
進藤は、深雪の顔を少し強張った表情で見つめ返し、探るように呟いた。
「……局部内からの……微量な、電気刺激……?」
「……」
「そうか……痛みじゃない。快楽の信号として脊髄のバイパスを通せば……脳のショートを、防げる……?」
断片的にこぼれ落ちる進藤の推論を、深雪はただ、感情の読めない静かな瞳で見つめ返していた。




