第133話 美しき研究室の歪み
「失礼します。女医乃先生、先日はお時間をいただきありがとうございました」
午後15時ちょうど。ノックの音と共に研究室に姿を現したのは、A社の進藤玲だった。
深雪はモニターから視線を外し、完璧な外科医の笑みを浮かべて出迎える。
「こちらこそ。……それで、進藤さん。今日は? 次の機材の営業ですか?」
「いえいえ、まあそれもありますが」
進藤は苦笑交じりに肩をすくめ、室内に一歩足を踏み入れた。
「一番は、先日納入したチェアの稼働状況はいかがかなと思いまして。何か問題はありませんか?」
「まだ施術は二件ですが、好評ですよ。……もちろん、ノーマルモードでの話ですが」
深雪は静かに立ち上がり、部屋の中央に鎮座する『スマート空圧式処置チェア』へと視線をやった。
「やはり『完全拘束モード』を使う機会は、そうそう無さそうです。過剰投資だったかしら?」
完璧な笑みを崩さぬまま、深雪はふと思いついたように言葉を継いだ。
「そうね。せっかくですから……進藤さんの完全拘束状態での波形、そこの新型生体反応計測ユニットで取らせてくれませんか?」
それは、機材テストという大義名分を借りた、深雪からの静かな挑発だった。
だが。
「……ええ、いいですよ」
進藤は一瞬の躊躇すら見せず、さらりと頷いた。
「ただ、私の波形はひどく退屈かもしれませんよ?」
微笑を浮かべ、深雪の目を真っ直ぐに見つめ返す。その視線には戸惑いや警戒は一切なく、ただ静かな余裕だけが漂っていた。
その底知れなさに、深雪はたまらず口元を小さく綻ばせた。
「……クスリ。もちろん、冗談よ」
「ふふっ、それは残念です」
進藤は微笑んだままゆっくりと室内を歩き出し、処置チェアの傍らへと歩み寄った。
「でも本当に、良い仕上がりですよね。このベルトの質感も、見事なものです」
進藤の白く細い指先が、分厚い拘束ベルトの表面を滑らかになぞる。さらに、内蔵されたエアチャンバーの弾力を確かめるように、ゆっくりと圧をかける。
「この質感……見事なホールド感です。これなら、いざという時も対象を『逃がさず』に吸収できる」
彼女の指先は、単なる機材チェックの枠を越え、極上の拘束具のポテンシャルを読み取るように、静かに、そして念入りに感触を確かめていた。
「ごめんなさい、進藤さん。ちょっと早急に仕上げてしまいたいレポートがあって。十五分ほど待たせてしまうけれど、構わないかしら?」
進藤がチェアの感触をひとしきり確かめ終えた頃合いを見計らい、深雪が自身のデスクから声をかけた。
「ええ、大丈夫ですよ。どうぞお気になさらず」
「ありがとう。もし機材とか興味があったら、適当に見て回ってていいわよ」
「では、お言葉に甘えて少し拝見させていただきますね」
深雪が視線をパソコンのモニターへ戻すと、やがて規則正しいタイピング音が研究室に響き始めた。進藤はその音を背中で聞きながら、静かな足取りで室内を歩き出す。
(流石ね……)
進藤は先ほど深雪が口にした『新型生体反応計測ユニット』の前に立ち、感心したように目を細めた。
(確かにこれなら、脳の波形を寸分違わずあらゆる角度から解析できる)
さらに歩みを進めると、今度は横に設置されたハイエンド機材が目に入る。
(『術中モニタリングシステム・Ver.X』……なるほど。流石に最先端の設備を揃えているわね)
進藤は部屋の奥、ガラス戸がはめられた棚の前で足を止める。そこには様々な種類のパッチや器具が整然と並べられていた。
(……骨盤内神経の測定用プローブね)
その中の一つ、見慣れたベース形状の特殊な器具に目を留める。だが、ガラス越しにその構造を観察していた進藤の目が、静かな違和感にすっと細められた。
(……妙ね。この側面の増設パーツ……アクチュエーターかしら。こんなものを付けても、不必要に過剰な刺激を与えるだけじゃない)
驚きというよりは、専門家としての余裕を持った疑念。
(一般の医療で、一体何のためにこんな特注を……?)
その不可解な仕様に静かな疑問を抱きながら、進藤はふと顔を上げた。
視線の先、少し離れた機材ラックの横に置かれたサブモニターが、暗い画面の中で規則的な光を明滅させている。
そこには、無記名の「とある生体データ」の波形が映し出されていた。
静かな研究室に、深雪の乾いたタイピング音だけが等間隔に響いていた。
進藤は少し離れた機材ラックの横で、暗い画面の中で規則的な光を明滅させているサブモニターの前に立ち止まった。
(……何の波形グラフかしら)
進藤は無記名のグラフに目を留め、怪訝に眉をひそめた。一見するとただの定常ノイズのようにも見えるが、波のうねり方に特有の癖がある。
(縦軸の単位は……電圧[μV]。横軸は時間[ms]ね。縦軸のスケールが異常に大きいわ。最大値の設定が1200を超えている。横軸の傾きから見ても、伝導速度が145[μV/ms]付近で推移している)
元ボストンの研究者としての知識が、その数値と単位から対象を正確に絞り込んでいく。
(なるほど、脳の……報酬系の波形ね。でも、おかしいわ)
進藤の目が、静かに細められる。
(通常の人間なら、報酬系の最大振幅はせいぜい1000[μV]程度。伝導容量も120がいいところよ。常人に対して、増幅率も伝導容量も約1.2倍……。どこか計測のキャリブレーションが狂っているのか、単純なセッティングのミスね)
臨床的には考えられないグラフを見て、進藤は「機材の計測エラー」だと脳内で冷静に結論づけた。
その時。
ピタリ、と背後で響いていたタイピング音が止んだ。
(……っ)
進藤の肩がピクリと跳ねる。
「す、すいません。つい勝手に……」
覗き見していたことを誤魔化すように振り返ると、深雪はデスクのチェアに座ったまま、こちらへと振り向いていた。
だが、深雪は咎めることもなく、進藤とサブモニターを交互に見やると、ふっと口元を緩める。
「ああ、それね。……興味があるなら、スクロールして見てもいいわよ」
「え……?」
深雪はそれだけ言い残すと、再び自身のパソコンへと向き直った。
カタカタ、カタカタ……。
何事もなかったかのように、乾いたタイピング音が再び研究室に響き始める。
進藤は特に動揺を見せることもなく、「じゃあお言葉に甘えて」とでも言うようにマウスへ手を伸ばし、滑らかにホイールを回した。
暗い画面がスクロールされ、無記名の波形グラフの下から、詳細なカルテのようなテキストが浮かび上がる。
『症例MS』
(症例MS……?)
『……前回の治験における特異的な適合により、被験体の報酬系回路には不可逆的なハードウェアの変質(高密度化)が確認された』
『伝導容量の1.2倍化(145 μV/ms)』
『増幅率の1.2倍化(1,200 μV)』
『無通電の待機状態であっても、シナプス間で微量な伝達物質の漏出(自発発火)が常時発生している』
進藤は、画面に羅列された冷徹な文字列を静かに目で追った。
(なるほど。計測エラーじゃないのね。このカルテの状況通りのハードウェアなら、さっきの異常なグラフの波形になるのもあり得るわ)
進藤は小さく息を吐き、元ボストンの研究者としての冷静な思考を巡らせる。
(……確かに、特異的な環境下で神経回路が変質するような症例があるのは事実だわ。それにしても、こんなに精密に? 私の見識では、あり得ないわね。じゃあ、これは?)
「お待たせ。終わったわ」
背後でタイピング音が止み、深雪がゆっくりとデスクから立ち上がった。彼女は部屋の片隅にある応接スペースへと視線を向ける。
「あっちの応接で話しましょうか」
「はい。よろしくお願いいたします」
進藤は瞬時に思考を切り替え、顔にいつもの華やかで隙のない営業スマイルを貼り付けた。
深雪が淹れたコーヒーの香りが漂う中、二人はローテーブルを挟んで静かに向かい合う。
深雪は、先ほど進藤が見ていたあの画面のデータについては一切触れなかった。何事もなかったかのように穏やかな表情で、カップに口をつける。
進藤もまた、表面上は完璧な営業の顔を保ち、当たり障りのない会話に穏やかに相槌を打っていた。
(……症例MS。伝導容量145、増幅率1200。物理的なサイズは変わらないまま、神経ネットワークだけが快楽に最適化されている? ……エラーにしては、辻褄が合いすぎていて美しすぎる。あり得ないわ)
頭の片隅で冷静にそんな疑問を反芻しながらも、進藤は何事もないかのように笑顔で会話を合わせ続けた。
「それで? 今日は何の営業かしら」
コーヒーカップを置いた深雪が、ふと微笑みながら水を向ける。
「実は……先日、当社で新しく発表した『術中モニタリングシステム』のパンフレットをお持ちしたのですが」
進藤は営業スマイルを崩さず、鞄から真新しいパンフレットを取り出してテーブルに置いた。
だが、言葉を継ぎながら、進藤の視線は先ほどまで自分が立っていた部屋の隅――そこに鎮座するハイエンドな機材ラック群へとチラリと向けられた。
「あちらに素晴らしいシステムがすでに組まれているのを拝見してしまったので……正直なところ、少しお見せするのが気が引けるのですが」
「どれ……」
深雪は進藤の謙遜を気にする風でもなく、パンフレットを手に取った。
ペラペラと数ページをめくり、スペック表に軽く目を通すと、ふっとつまらなそうに息を吐く。
「ええ。確かにまだまだね」
あっさりと一蹴し、深雪はパンフレットをテーブルへコトリと置いた。
そして、頬杖をつきながら、部屋の奥に設置された重厚な拘束チェアへと視線を向ける。
「御社らしく、もっとマニアックなものを持ってくればいいのに。……あーゆうの、とか」
「耳が痛いですね」
進藤は完璧な営業スマイルを一切崩さず、静かに相槌を打った。
「確かに、一般的な医療器具の分野では、弊社はまだ新興ですので。どうしても既存の大手メーカー様には及ばない部分がございます」
進藤はそこで言葉を区切り、ふふっと余裕のある笑みを浮かべる。
「ですが、逆に言えば……ああいった『規格外』のご要望にこそ、弊社のフットワークがお役に立てるかと存じます」
「そうね。あなたが開発に関わっていることだし」
深雪の言葉に、進藤はクスリと短く笑い声を漏らした。
「ええ、まあ。確かにそうです。……今度伺う時は、もっと面白いものをお持ちしますよ」
「それにしても、凄い設備ですね」
「そうね。ここでは、設備の方が偉いわね」
「また、ご謙遜を」
進藤がいつもの笑みで返すと、深雪はゆっくりとソファから立ち上がった。
「今日は、こんな感じで良いかしら?」
「ええ。本日はつまらない案件でお時間を取らせてしまい、申し訳ありませんでした」
進藤も合わせて立ち上がり、丁寧にお辞儀をする。
「あー、気にしないで」
深雪が軽く手を振って応え、このまま面会が終了するかと思われた、その時だった。
「……あの、少しだけよろしいですか?」
進藤がふと営業スマイルの奥にある声のトーンを微かに変え、静かに呼び止めた。
「勝手に見るつもりはなかったのですが……先ほどのサブモニターに映っていた『症例MS』のデータについてです」
「……」
「伝導容量と増幅率が常時の1.2倍。しかも脳のサイズはそのままに、ネットワークだけが高密度化されている。……エラーにしては、辻褄が合いすぎていて美しすぎます。人間の脳が自ら、あの圧倒的な負荷を許容して作り変えたとしか思えない」
元脳科学者の見地から鋭く迫る進藤に対し、深雪は隠すこともせず、余裕の笑みを浮かべて受け流した。
「あら。よく見ているのね。……私の、特例患者のデータよ」
「特例患者、ですか」
進藤は小さく眉をひそめ、探るような視線を向けた。
「……先ほどの数値の異常さはさておき、現象そのものは私の見識でも、決してない話ではありません」
「うん」
深雪はソファにゆっくりと座り直し、先を促すように静かに頷いた。
「脳の特定の回路……特に報酬系が何らかの要因で暴走、あるいは『開花』してしまう症例は、現実の医学でも存在します。特殊な神経の異常で、常時絶頂感に近い快楽信号が出続けてしまうような特異な疾患も報告されていますし」
進藤はそこで言葉を区切り、先ほど見たカルテの文字列を思い返すように目を伏せた。
「ただ……仮にそうした『開花』が人間に起きていたとしても、普通はこんな精密な数値レベルでの検査には至りません。大抵は精神的な問題として片付けられるか、未解明のブラックボックスとして処理される。あんな詳細なハードウェアの数値データとして表に出てくること自体が、極めて少ないですね」




