第132話 極上の座り心地と条件反射
月曜日の午前十時。
一般病棟の処置室には、静かな稼働音と和やかな空気が満ちていた。
「女医乃先生、これ……すごく座り心地がいいですね。拘束されてるって感じが全然しないです」
術後の点滴治療を受けている中年の女性患者が、驚いたように声を上げた。
彼女が座っているのは、先週末に納入されたばかりの『スマート空圧式処置チェア』である。本来は深雪の研究室に置かれるものだが、今日は本格稼働前の臨床テストという名目で、一時的に一般病棟へと移動させて使用していた。
患者の四肢と骨盤は幅広のベルトで覆われているが、内蔵されたAIが患者の微細な動きや呼吸に合わせて瞬時にエアチャンバーの圧力を調整している。そのため、締め付けに伴う苦痛は一切なく、まるで全身を優しく包み込まれるような「ソフトな拘束感」だけが維持されていた。
「ええ、身体への負担を極限まで減らした最新型ですから。どうかリラックスしていてくださいね」
深雪は、慈愛に満ちた完璧な『優秀な外科医』の微笑みを浮かべて頷いた。
周囲で立ち会っていた看護師たちも、「これなら患者様も暴れないし、安全ですね」と感心したようにチェアの性能を絶賛している。
(ええ、まったくその通りよ)
深雪は患者のバイタルモニターを確認しながら、心中で冷たく同意した。
一切の痛みを伴わず、患者自身に『不快感がない』と錯覚させたまま、動きを封じる。そのノーマルモードのソフトで極上の座り心地こそが、いざとなれば対象を逃げ場のない檻へと作り変える、完璧なカモフラージュだった。
*
午後十三時半。
チェアと共に自身の研究室へ戻った深雪は、デスクのPCに向かい、規則正しいタイピング音を響かせていた。
『患者の不随意運動をソフトに吸収し、処置中の安全性を極めて高い水準で担保できる。臨床における有用性は非常に高いと評価する――』
午前中に得られた「表向きの絶賛評価」を臨床レポートとして打ち込み、保存する。
作業を終えた深雪は、ふと息をついて傍らのスマートフォンを手に取った。
プライベートのスケジュールアプリを開き、来週火曜日の空白の欄をタップする。そこに無機質なフリック入力で打ち込まれたのは、午前中の真っ当な医療とはかけ離れた文字の羅列だった。
『19:00 - 篠原(特定臨床研究プロトコル C-1)』
スケジュールを保存した直後、デスクの上の内線電話が短いコール音を鳴らした。
「はい、女医乃です」
『あ、深雪? お疲れ様』
受話器の向こうから聞こえてきたのは、外科助教授・久慈真理子の声だった。
「助教授。お疲れ様です、どうされましたか?」
『A社の進藤さんから、納入のお礼の連絡があってね。さっそく稼働状況を見学したいから、今週顔を出したいそうなんだけど……。まあ、どうせ次の機材の営業目的なんだろうけどね』
久慈は少し面倒くさそうに溜息をつき、言葉を継いだ。
『私、来月の学会の準備で手が離せなくて。水曜日の十五時なんだけど、あなたの方で対応できるかしら?』
「水曜の十五時ですね。ええ、構いませんよ」
深雪は即答した。
進藤玲。あの会食の席で『助手にしてほしい』と不気味な揺さぶりをかけてきた女。彼女の真の目的や底知れなさはまだ測りきれていないが、わざわざ現場に足を運んでくるという事実に、深雪は思考の奥で微かな警戒と知的な興味を交差させた。
『悪いわね、助かるわ。それじゃあ、進藤さんにはそう伝えておくから』
「承知いたしました」
電話を切ろうとする久慈に対し、深雪はふと思い出したように、極めて自然なトーンで言葉を投げかけた。
「そういえば助教授。午前中、さっそくあの『拘束チェア』を使いましたよ」
『……えっ?』
電話口の空気が、一瞬にして固まった。
深雪はわざと『スマート空圧式処置チェア』という正式名称を使わず、冷たい声で続けた。
「ええ。ノーマルモードはとてもソフトで素晴らしいホールド感でした。……でも、いざ設定を変えれば、身動き一つ取れないほど完璧に縛り上げられる。本当に素晴らしい機材ですね」
『あっ……そ、そう……。それは、良かった、わね……っ』
受話器の向こうから漏れ聞こえたのは、明らかに上擦った、息の詰まるような声だった。
週末の夜、機材テストという名目で大股開きの最大拘束を受け、触手毒のパッチによって『無防備に縛り付けられること』への倒錯した悦びを強制的に引き出された記憶。
たった数個の単語の羅列と、深雪の声色。それだけの非物理的なトリガーで、久慈の身体がパブロフの犬のように条件反射を起こし、白衣の下で密かに熱を帯びたのが手にとるように分かった。
「はい。導入していただいて、本当に感謝しています。それでは、失礼いたします」
カチャリ、と受話器を置く。
深雪の口元には、薄く、酷薄な笑みが浮かんでいた。
*
そして、水曜日の午後十四時五十分。
A社の進藤玲が来訪する十分前。深雪は自身の研究室で、静かな『遊び』の準備を進めていた。
自身が座るデスクのメインモニターには、極めて真っ当で倫理的な一般患者の手術報告書を開いておく。
一方で、深雪のデスクからは少し離れた、機材ラック横の解析用サブモニター――進藤が室内を見学して回れば、ごく自然に視界に入るであろう位置に、全く別のグラフを表示させていた。
常人の1.2倍に拡張された伝導容量。そして、視覚や聴覚の些細なトリガーだけでエラーを吐き出し続ける、異常に高密度化した報酬系のノイズデータ。
深雪はそこに記されていた『篠原』という患者名だけを削除し、ただの無記名のグラフにした。
そして、その異常な波形を、あえて画面いっぱいに表示させたまま固定する。
(常識的に考えれば、こんな数値で日常生活を送れる人間が存在するわけがない。普通の医療従事者が見れば、機器の故障か入力ミスによるただのエラーデータとして笑って流す代物よ)
深雪は少し離れた位置にあるサブモニターを眺めながら、口角をわずかに上げた。
進藤玲はすでに、深雪が表の医療とは別の『何か』をしていると感じている。ならば、探ってくる相手にあえて極上の謎を投げてやるのも悪くない。
あの傲慢な脳科学者が、この常軌を逸したバグを見てどんな反応を示すのか。そして、どこまで本質を見抜くのか。それは深雪にとって、単調な研究の合間に生まれた、ささやかで知的な楽しみだった。
コンコン、と。
時計の針が十五時ちょうどを指した瞬間、研究室のドアがノックされた。
深雪はモニターから視線を外し、完璧な外科医の仮面を被り直すと、静かに声を上げた。
「どうぞ」




